全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、古代武蔵野国の歴史をたどる。

武蔵国は東山道に属していた!

 きっかけは吉見町の「吉見百穴(よしみひゃくあな)」を訪れ、資料室で1枚のパネルを見たことである。そこには古代の東山道(とうさんどう)のルートが示され、吉見百穴は下野国から武蔵国に入る街道の脇に位置していると説明されていた。

 一瞬頭が混乱した。都との関係は東海道沿いのルートで説明してあるものと思っていたからだ。何しろ私の頭の中には、武蔵国は東海道の一部であるという認識で固まっていた。古代史に詳しい方はともかく、一般には武蔵国は東海道の一部であると考えてしまっている人が多い。

 そのパネルに「東山道武蔵路(むさしみち)」のことが書かれていた。これは当初東山道の本道の一部として開通した官道の一つで、後に支道となったと言われる道である。上野国(群馬県)から下野国(栃木県)を経て武蔵国の国府(東京都府中市)に至るルートであった。

写真を拡大 古代の東国の駅路

 そうだ、昔は武蔵国には東山道からの官道が通じていたのか……、その時はその程度の印象でしかなかった。しかし、私のかすかな記憶の中に、武蔵国は昔は東山道に属していたのでは……という思いが残っていた。

 そこで調べてみると、まさに武蔵国は東山道に属していた時期があったことが判明した。

『続日本紀』光仁天皇、宝亀2年(771)10月27日条に、こう書かれている。(引用は講談社学術文庫より)

十月二十七日 太政官(だじょうかん)が次のように奏上した。
 武蔵国は元来東山道に属していますが、兼ねて、東海道にも通じています。それ故公使の往来が頻繁で、十分な世話をすることができません。その東山道の駅路は上野(こうづけ)国の新田(にいた)駅より下野(しもつけ)国の足利(あしかが)駅まで達していまして、この道路は便利な道であります。
 しかし、現在では、道を枉(ま)げて上野国邑楽(おばらき)郡(現館林(たてばやし)市一帯)より五つの駅を経て、武蔵国の国府に到り、用事が終わって退去する日には、また同じ道を通って、上野国を経てそれから下野国へ向かっています。
 今の東海道は、相模(さがみ)国の夷参(いさま)駅(現相模原(さがみはら)市座間(ざま)より下総(しもふさ)国の国府に達していまして、その間には四駅があり、往来するのに近くて便利でもあります。
 しかし、この便利な道をやめてあの道を採とりますと(上野国府から武蔵国府を往復して、下総国府に向かう経由)、損害が極めて多くなります。私どもが考えますに、武蔵国を改めて東山道から東海道に属させれば、公私ともに都合がよくなり、人馬も休息することができるでしょう。
 天皇は奏上どおり、これを許可した。

 この奏上によると、武蔵国を東山道から東海道に移した理由は、武蔵国の国府(東京都府中市)から下総国の国府(千葉県市川市)に行くには東海道を使ったほうが便利だからであった。この宝亀2年(771)から武蔵国は東山道から東海道に所属換えになったということになる。

 武蔵国の玄関口が現在の東京都のほうに移ったのは、奈良時代末のこの時期のことであって、それまでは今の埼玉県が玄関口であったということである。それを実証するために、二つの事例で説明することにする。

 その一つは平安時代に記録された「式内社(しきないしゃ)」の数の分布であり、もう一つは言うまでもなく、「埼玉」という県名のルーツと言われる埼玉(さきたま)古墳群である。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉