もし小早川秀秋が裏切らなかったら…、もし秀頼が関ヶ原に来ていたなら…、もし毛利が戦いに参加していたなら…。歴史にイフはないが、勝敗の行方は紙一重の差だった関ヶ原合戦。西軍がもし勝利を収めていたなら、三成はどのような国を作っていたのか。戦国時代研究の第一人者・小和田哲男氏は、三成が思い描いていた国の体制について、『歴史人』10月号で次のように書いている。

石田三成(イラスト/さとうただし)。

「三成が家康の留守をねらって挙兵したのは、五大老・五奉行の10人体制から、政権簒奪の恐れがある家康を排除するためであった。したがって、三成が構想していたのは、幼君秀頼を形の上では推戴(すいたい)し、実質上は家康を除いた四大老・五奉行による政権運営である。
 その場合、三成は秀頼をどうしようと考えていたのだろうか。おそらく、秀頼がある程度の年齢になったところで関白に推任し、秀頼が三代目関白となり、関白豊臣政権の復活を夢見ていたのであろう。秀吉の恩に酬(むく)いるために、秀頼を前面に立てるということはやったはずである。

 ただ、いつまでも四大老・五奉行体制が続くことを三成が考えていたかどうかはわからない。毛利輝元・前田利長・上杉景勝・宇喜多秀家の4人の中から突出する者があらわれないとも限らないからである。四大老・五奉行体制は一種の連立政権であり、三成が夢見る関白秀頼による豊臣専制体制とは大きくかけ離れている。三成は有力大名による連立政権ではなく、かつての秀吉存命中のような豊臣秀頼中心の政権を考えていたのではなかろうか。もしかしたら、秀頼が成人して関白に就任した暁には、四大老は次第に政権中枢から排除されるようになったかもしれない」

 三成は、あくまでも秀吉の恩を忘れずに盤石な豊臣国家を作ろうとしていたのだろうか。

『歴史人』2017年10月号「三成はなぜ戦ったのか?」より〉