「神の予言を授かった皇后が、崩御した天皇の御子を体内に宿したまま、海の向こうの異国を平定した……」記・紀は神功皇后について、神がった伝説を遺している。とうてい現実とは思えない逸話の数々は、宮廷で語られた古い神話がベースにあった。神功皇后伝説から古代日本の「秘史」に迫る。
『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』(国立国会図書館蔵)より、神功皇后。
◎神功皇后の三韓征伐とは?
 仲哀天皇と神功皇后は、ヤマトにまつろわないクマソ族を討伐するため、九州へと行幸した。香椎宮に入った神功皇后は、「西にある国を攻めよ」という神のお告げを受ける。しかし「西に国など見えない」とお告げを信じなかった仲哀天皇は、神罰によって急逝する。遺された皇后は神託の通り、軍を率いて渡海する。神の加護を受けた皇后の軍船は、風の神が起こす浪、水中の魚の助けによって進む。新羅は皇后が起こした大波にのまれてしまい、新羅王は戦わずして白旗をかかげる。さらに、高句麗と百済の王も同じく降服した。


7世紀に新羅出兵を指揮した
斉明天皇の事蹟がモデルか?

 神功皇后は、夫である仲哀天皇が崩御した後、その御子・応神天皇を生み、政事を執り行ったとされる人物である。この「神功摂政」の仲でも最も大きな出来事が「三韓征伐」である。
『古事記』『日本書紀』には、皇后が軍を率いて海を渡り、古代の朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の3国(三韓)を平定したことが記されている。
 しかし、この伝説は史実ではない。「新羅王が天皇の教化や支配に従うべきだ」という古代貴族らの願望を表した創作である。伝承が創られた背景には、古代日本と朝鮮半島との関係の変化があった。

 弥生時代より日本人は鉄を求めて半島南部に渡った。4世紀後半には、百済と同盟関係を結び、百済王から大量の鉄を贈与された。その見返りに半島方面への出兵が本格化するようになる。
 ところが、6世紀に入ると半島との友好関係に異変が起きる。国力を増した新羅が、半島南部にあった伽耶地域を占拠したのだ。さらに7世紀に入ると百済・高句麗も滅ぼし、半島全域を統一したのである。新羅の政治的成長は、日本の半島における活動、利権を阻害した。そのため、当時の王権は、半島の支配権を正当化するために、「帝紀・旧辞」(記・紀のもとになった伝承を記した書物)に「三韓征伐」を書き加えたのである。

 神功皇后伝説が7世紀に生まれたとする根拠は、皇后の「オキナガタラシヒメ(息長帯日売)」という御名にある。
「オキナガ」とは、近江国坂田郡の豪族「息長氏」に由来する。6世紀後半に在位した第30代敏達天皇の皇后・広姫は、息長真手王の娘であった。その血を引く第34代舒明天皇は「オキナガタラシヒヒロヌカ(息長日足広額)」である。
 皇極女帝は重祚して斉明天皇となると、7世紀半ば、新羅・唐連合軍に滅ぼされようとしていた同盟国・百済への救援軍派遣を指揮し、いずから九州へと行幸している。この事績が神功皇后の「三韓征伐」伝承に決定的な影響を及ぼしたようである。

 舒明・皇極の両天皇の御名には「タラシ(足=帯)」号が共通している。さらに『随書』倭国伝には、「アメタラシヒコ(阿毎多利思比孤)」という7世紀初頭の倭王の称号が記される。
 したがって、息長氏の血を引く両天皇の在位期に、「オキナガタラシヒメ」という名号がつけられたと考えられる。「三韓征伐」伝説は7世紀の舒明朝から斉明朝に、当時の半島情勢をふまえて形成されたのである。