関ヶ原合戦の西軍総大将・毛利輝元。関ヶ原の合戦の後、家康と120万石の本領安堵の約束を交わしながら、約束は守られることはなく、36万石に減封されてしまった。家康の方が上手だったのである。
 しかし、輝元にとっての「起死回生へのチャンス」が、少なくとも3回あった――と、歴史研究家の渡邊大門氏は『歴史人』10月号で解説している。その3回を紹介する。

毛利輝元像

①もしも、秀吉死後、安国寺恵瓊を殺害したら…
 秀吉の信頼を得て毛利の使僧から大名へとのし上がった恵瓊。秀吉の死後、島津忠恒が伊集院忠棟を誅殺したように、仮に毛利本家が恵瓊を殺害していたら、毛利と西軍との接点は希薄になり、家康との関係が強くなるなど、史実と異なる展開もあり得た。結果的に本領も安堵されたかも……。

②もしも、南宮山の毛利軍が家康本陣を攻撃したら……
 毛利軍が家康の本陣に攻め込んでいたら、家康軍は壊滅的な打撃を受けるか、あるいは家康自身が戦死していた可能性がある。そうなると、輝元が豊臣政権の主導権を握り、将来的には「豊臣幕府」か「毛利幕府」が成立していた可能性も否定できないだろう。

③もしも、輝元が秀頼を擁して大坂城を占拠、抵抗したら……
 関ヶ原本戦後、輝元が家康との和睦を破り、家康に徹底抗戦を挑んだとしても援軍は望めず、勝利の芽はなかった可能性が高い。それでも、本領安堵の交渉を直接家康とすることで、旧領のすべてを維持できないまでも、より有利な条件を引き出せたかもしれない。

 もし、毛利輝元が決断していたら、「毛利幕府」が成立していたかもしれない。

『歴史人』2017年10月号「西軍武将たちの思惑と誤算」より〉