関ヶ原合戦の後、捕らえられて斬首になった石田三成。実は三成には、3人の子息と3人の娘がいた。その子達はどのような運命をたどったのだろうか。歴史作家の楠戸義昭氏が「歴史人」10月号で次のように紹介している。

「長男の重家は、関ヶ原合戦後に京都・妙心寺で出家し、宗享という法名を名乗った。住持の伯蒲慧稜(はくほえりょう)は重家の助命嘆願を行い、何とか許された。重家は104歳まで生きたといわれているが、その生涯には謎が多く異説も多い。

 次男の重成は、もともと秀頼の小姓として仕えていた。同じく、秀頼の小姓として仕えていたのが津軽信建であった。関ヶ原合戦後に重成の危機を救ったのが、同僚の信建である。信建は重成を伴って大坂城を脱出すると、津軽を目指した。以後、津軽で匿われた重成は、家康の追及を逃れるため、名を杉山源吾と改めて潜伏生活を送ったという。重成は慶長15年(1610)に亡くなったといわれているが、寛永18年(1641)まで生き延びたという説もある。

 三男の佐吉は、関ヶ原合戦後に佐和山城にいたが、開城後は木食応其(もくじきおうご)のもとで出家し、清幽という法名を乗った。

 長女の某は、三成の家臣・山田隼人正の妻となった。関ヶ原合戦後、家康の側室・茶阿局(隼人正の叔母)を頼り、松平忠輝に仕官した。忠輝の改易後、隼人正は妻の妹の辰姫を頼り、津軽藩から捨扶持(すてぶち)を与えられたという。

 次女の某は、蒲生氏の家臣・岡重政の妻となった。蒲生騒動後、夫は江戸で切腹を命じられ、某も若狭小浜で亡くなったという。子息の岡吉右衛門の娘・お振の方は、徳川家光の側室となった。2人の間に生まれたのが、千代姫である。千代姫は尾張藩主・徳川光友のもとに嫁ぎ、二男二女に恵まれた。嫡男・綱誠の子孫は、現代の天皇家につながっている。

石田三成の三女辰姫は、三代津軽藩主津軽信義の生母である。津軽氏の居城、弘前城。

 三女の辰姫は、兄・重成とともに津軽に逃れ、のちに津軽信牧の妻になった。しかし、信牧は辰姫が三成の娘であったことを憚(はばか)り、家康の養女・満天姫を正室に迎えた。これにより辰姫は側室となったが、嫡男の信義を生んだ。辰姫の没後、信義は信牧によって後継者と認められた」

 三成の子どもたちは数奇な運命をたどったが、無事に石田家の血を残したようだ。 

『歴史人』2017年10月号「関ヶ原合戦の謎10」より〉