イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 享保(1716~36)のころ、浅草の通りや両国橋のあたりを毎日徘徊する、「蔵前おばあ」と呼ばれる有名な愚人がいた。「おばあ」という名が付いていたが、れっきとした男である。
 むさくるしいかっこうをして、手足は泥でよごれていた。

 馬方に引かれた馬が通りかかると、後から近づいて肛門をのぞこうとして蹴られたり、女子供が通りかかると着物の裾をめくって陰茎を出して見せるなど、とても正気とは思えなかったが、完全な乱心でもないようだった。
 この蔵前おばあの両親は、相応の暮らしをする商家だったという。『武野俗談』によると、いきさつはつぎのようなものだった。

 浅草新堀に、和泉屋という蕎麦・うどん屋があり、主人は与兵衛といった。和泉屋には、与兵衛の女房の妹が同居していたが、いつしか与兵衛と関係ができ、ついには妊娠してしまった。
 ふたりの関係を知った女房は激怒し、妹に殴る蹴るの折檻を加えたあげく、「子供は堕してしまいな」と、堕胎薬を呑むようせまった。
 やむなく妹は堕胎薬を呑んだが、劇薬である。けっきょく、堕胎薬がもとで死亡してしまった。

 与兵衛夫婦は子供がなかったが、妹が死んだのと同じ月、女房が懐胎した。それまで子宝に恵まれなかったため、夫婦は大喜びである。
 月満ちて、男児が無事に生まれた。
 夫婦は目のなかに入れても痛くないほどかわいがったが、生まれつき知能がおくれているのか、二歳になっても両親の顔の見分けがつかず、言葉もいっさいしゃべれなかった。
 夫婦は子供の成長を神仏に祈願したが、三、四歳になってもまったく言葉を発しなかった。

 五歳の春になって、子供は母親の顔を見て初めて、
「おばあ」
 と呼んだ。
 それ以降も、「おばあ」としか言わない。
 このことが世間にひろまり、いつしかその子を「蔵前おばあ」と呼ぶようになった。

 

 与兵衛夫婦は苦悩した。
 妊娠していた妹を死に追いやったことのむくいであろうか。妹の腹に宿っていた赤ん坊が女房の腹に生まれ変わり、出生したのであろうか。
 妹の子であれば、女房にとって甥である。我が子が母親を「おっ母ぁ」と呼ばず、「おばあ」と呼ぶのはそのせいなのであろうか。子供が愚かに生れついたのも、前世の因縁なのであろうか。
 与兵衛夫婦はついに和泉屋をたたみ、出家して仏門にはいった。

 江戸時代、「月水早流し」などの堕胎薬が流通していたことが知られている。くわしい成分などは不明だが、水銀がふくまれていたようだ。たとえ堕胎に成功したとしても、母体の健康をそこなうことが多かったし、前記の妹のように死亡することも少なくなかった。
 史料には、堕胎薬を呑んで死亡した女の事例が多々、書き留められている。