イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 矢部定謙は大坂町奉行を務めているとき、名奉行とたたえられた。 
 天保十二年(1841)には江戸町奉行に起用されたが、わずか在任八ヵ月で罷免された。この背景には、天保の改革を推進する老中水野忠邦との対立や、町奉行の座を狙う鳥居耀蔵の陰険な画策があった。
『燈前一睡夢』に、矢部定謙が人情の機微に通じていたことを示す例がある。矢部が江戸町奉行だったときのことである。

 本郷三丁目に久助という八百屋が住んでいた。久助の女房が、近所に住む伝七という男と密通した。
 女房の不倫を知った久助は、事を荒立てることなく、伝七に面会して、
「あたくしはもう女房に未練はございません。もし女房がほしければ、差し上げましょう。それなりの挨拶をしていただければ、それでもう後腐れはございません。ただし、近所に住まわれていてはあたくしも面目丸つぶれなので、引っ越してください」
 と、申し入れた。
 伝七もこれを了承し、「肴代」として五両を久助に贈った。いわゆる慰謝料である。

 これで一件落着したかに思われたのだが、その後、伝七はいっこうに引っ越す気配がない。それどころか、まるで久助をあざ笑うかのように、女房と酒を呑んで毎晩、大騒ぎをしている。
 久助はしばしば引っ越すよう申し入れたが、伝七はまったく取り合わない。ついにたまりかねて、久助は町奉行所に訴え出た。

 訴えを取り上げた矢部は、さっそく伝七を奉行所に召喚した。ひととおり事情をたしかめた上で、糾問した。
「なぜ、当初の約束どおりに引っ越さぬのか」
「あたくしも引っ越したいのは山々なのですが、引越しをする金がございません」
「しからば、そのほうに引越料をくだし置くので、早々に引っ越せ」
 そう命じるや、矢部は引越料として五貫文をあたえた。
 伝七は他人の女房はもらうし、役所から引越料は支給されるわで大喜びである。

 意気揚々と帰宅すると、なんと、わが家は封印されており、なかにはいることもできない。驚いた伝七は、家主のもとに駆けつけた。家主とは、地所や家屋の所有者である。
「いったい、どういうことですかい」
「さきほど、お奉行所から命令があり、『公儀より引越料をちょうだいした以上、伝七はすぐさま引っ越さねばならぬ。この家にはもはや住むことはあいならぬ。伝七の家財道具一式は久助にさげ渡せ』との、ことでしてね。
 気の毒ながら、おまえさんはお上からちょうだいした五貫文を持って、女房とふたり、着の身着のままで、どこへでも行ってください」
 それまで有頂天になっていた伝七も、一転して途方に暮れた。