多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

誕生した日、奉公先など幼少期は未だ謎に包まれている

 土方歳三は天保6年(1835)に武州多摩郡石田村の農民・土方隼人(義
諄)の子供として誕生した。厳密には10人兄弟だが、早世した兄姉が4人あり、
現実的には3人の兄と2人の姉のいる6人兄弟の末子である。

 一説に5月5日が誕生日とされるが、これが公にされたのは義兄である日野
の佐藤彦五郎の孫の佐藤仁が、昭和10年のラジオ番組で語り、それが同48年に活字化されてからのことで、いわば佐藤家の伝承といえる。

 しかし、明治29年に刊行された『家庭雑誌』掲載の「土方歳三の少年時代」
(冷月生著)には、誕生が1月とされている。その取材源は土方家を相続した
喜六の長男で、当時の家長だった弘化2年生まれの土方作助(義弘)と考えら
れ、いわば土方家の伝承である。

 どちらが正しいにせよ、歳三の誕生日については裏付けとなる記録はなく、
特定することは不可能な状況にある。

 また、佐藤家の伝承では、歳三は11歳の弘化2年(1845)に江戸上野の
呉服店・伊藤松坂屋へ奉公に出されたものの、ほどなく店の番頭と衝突したた
め、家に帰ってしまったとされる。しかし、石田村の「宗門人別帳」の控えに
よると、歳三が奉公に出たのは、13歳の弘化4年か14歳の嘉永元年(1848)。奉公先も江戸というのみで、その場所も屋号も記録されていない。

 伝承では、その後ふたたび某所へ奉公に出るが、17歳のときには女性問題が原因で暇を出されたというが、これも「宗門人別帳」によると事実ではなく、奉公は安政4年(1857)まで続けられた。

 しかし、この嘉永4年という年は歳三にとって大きな意味を持っていた。

 この年、歳三が近藤勇の義父で、江戸市谷に天然理心流道場・試衛館を開く近藤周助の門に入ったとの記録があるのだ。明治6年(1873)ごろに武州小野路村の名主・小島鹿之助が著した『両雄士伝』である。

 奉公中に入門が可能であるとは思えないのだが、実はこのころから剣術に親しんでいなければ、不可能な出来事がある。

 万延元年8月、江戸を除く周辺地域での諸流派の剣術巧者の名簿『武術英名録』が刊行された。天然理心流免許皆伝の佐藤彦五郎の名前のほか、同流の皆伝者の名前も散見される。そこに歳三の名前もあるのだ。つまり、このときに歳三は免許皆伝者と比肩するだけの実力を認められていたことになる。