静岡県の諏訪原城は、大小4つの丸馬出によって防御された武田流築城術の典型として知られる。数年前の発掘調査にともなう整備によって、「二の曲輪」と称される丸馬出の周辺の樹木が伐採された。そのため、以前よりも見やすくなった。

諏訪原城「二の曲輪」丸馬出

 樹木が伐採されることにより、空堀と土塁によって囲まれた丸い空間であることが理解できる。諏訪原城は武田氏が遠州支配の拠点として築いたものの、徳川方が奪還し、武田方の逆襲に備えて強化。現在に残る丸馬出は徳川方によって築かれたと想定される。

【諏訪原城の詳細については下記のサイトをご参照ください。http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2103009/】

 興国寺城もまた、発掘調査が進行しており、どんな状況か知るため攻めてみた。すると、どうも見頃を終え、埋め戻し作業が終わったという感じであり、今後の整備事業の展開待ちという状況だった。興国寺城の丸馬出もまた、徳川時代の築造と想定した方が自然なのだろう。

 

 丸馬出のエリアは、民有地であったのが、発掘調査が行われ、現状では空き地のような状態となっている。青い矢印の土手状の部分が土塁の残りであり、整備事業によって空堀とともに土塁が復元されると思われる。

【興国寺城の詳細については下記サイトをご参照ください。http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/3114002/】

 武田流築城術の原型といえる技術が実際に存在したのかもしれない。だが、現実として、武田流築城術は、『甲陽軍鑑』をテキストにしている以上、多くの創作が含まれていることは否定できない。
―論旨の詳細は拙著『山本勘助の時代一〇〇人』を参照―

『甲陽軍鑑』は、作者の小幡景憲が甲州流軍学を広めるため、史実と創作をミックスさせ、作り上げられた。そのような過程のなかで、架空の軍師としての山本勘助が登場し、勘助による武田流築城術が世に広められることになったのだと考える。

 つまらない結論かもしれないが、武田流をはじめ、北条流や上杉流など、戦国大名は独自の築城術を編み出したとされるが、そんなに築城術に大差があったとは思われない。丸馬出に限ることなく、城を築こうとするとき、だいたい思いつくことは同じであり、縄張り(設計)には、大差がないような気もする。

 暴論かもしれないが、こんな大雑把な見方で城を見ると、また違う一面も見えてくくるのかもしれない。