多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

 
 

25歳で天然理心流に正式入門する

 歳三が正式に近藤周助の門に入るのは、奉公を終えた2年後の安政6年3月9日であり、これは天然理心流の「神文帳」によって確認できる。25歳のことである。

 安政6年の翌年が万延元年であり、このわずか1年の修行で『武術英名録』に掲載されるほどの剣術巧者になれるはずがない。天然理心流は入門後、切紙—目録—中極意目録の順を経て免許が与えられるが、入門から免許までは平均で10年半の年月を要し、最短で5年半という。歳三がどれほどの天才であったとしても、1年で免許目前の中極意目録であったとしても、その段階に達することは不可能だ。

 だからこそ、17歳入門説に説得力が生じるのだ。奉公をしながらの修行であれば、このときを仮入門、安政6年を正式入門と考えるべきである。

 そして、奉公と修行の両立の可能性を考えれば、これが普通の奉公であってはならない。奉公人にはほとんど自由時間など与えられてはいなかったのだ。その要求を満たしてくれる奉公先といえば、一般の商家ではなく、親戚や非常に懇意な相手を想定する必要がある。この点、土方家には四谷方面に数軒の親戚の商家があり、奉公と剣術の両立という条件でその一軒に預けられたと考えれば、近くの市谷の試衛館に通うことができる。

 こうした土台があってこそ、『武術英名録』に名前を残すことができたのである。また、同時にこれが歳三と近藤勇を結び付けた契機となる。

 歳三が家伝薬「石田散薬」の行商に歩いたという伝承は、当然、2度目の奉公を終えてからのことであり、また、17歳のときに結婚話が進められたものの、大望があることを理由に断り、相手の娘・お琴を許嫁としたという伝承も、2度目の奉公後のことでなければならない。

 以後、歳三は家業を手伝うかたわら修行に励み、文久元年(1861)8月に府中六所宮(現大国魂神社)で行われた、近藤勇の天然理心流4代目披露の野試合にも抜擢され、同年中より近藤や沖田総司とともに、多摩地方での出稽古にも加わるようになる。 

 こうして剣士としての地歩を固め始めた歳三に、文久2年12月の末、幕府が結成する「浪士組」の加盟者募集という報が届くのである。