「神の予言を授かった皇后が、崩御した天皇の御子を体内に宿したまま、海の向こうの異国を平定した……」記・紀は神功皇后について、神がった伝説を遺している。とうてい現実とは思えない逸話の数々は、宮廷で語られた古い神話がベースにあった。神功皇后伝説から古代日本の「秘史」に迫る。
『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』(国立国会図書館蔵)より、神功皇后。

応神・仁徳天皇はひとりの王者像から
文化したイメージだった?

 応神天皇について、『日本書紀』では『古事記』と記述内容が少し異なっている。天下の統治権は既に胎中にいた時から授けられており、誕生してから身体の聖異のことが明らかになったとする。そして、鞆の古語がホムタなので「ホムタ(誉田)天皇」の名となったという。

『古事記』は大鞆が、書紀では誉田が本来の名号であると説明している。書紀はさらに別伝を記載し、太子が角鹿(敦賀)の笥飯大神から「ホムタワケ(誉田別)」の名を賜ったとする。
 このように、応神天皇の御名は3種類あって確かなものではなく、作為性がきわめて強い。

『古事記』は第26代継体天皇の始祖を「品陀(太)天皇」と記している。ところが、誉田(品陀)というのは河内国志紀郡(大阪府羽曳野市)に比定されている応神の陵墓の所在地名なのである。

 記・紀では通常、歴代天皇の陵墓は天皇崩御のことに続いて記載される。しかし、応神陵に関して『古事記』では「川内恵賀之裳伏岡」とあるが、書紀には記載がなく、雄略9年7月条に「蓬蔂丘誉田陵」との記述がみえ、かなり混乱した状態になっている。とりわけ書紀は応神陵の記載漏れという重大な欠陥があり、応神天皇自体の実在性に強い疑念を抱かせるのである。

 そのことに関し「応神・仁徳同体分化説」と呼ばれる興味深い学説が、戦後に提唱された。応神・仁徳両天皇の事績を詳しく比較検討してみると、類似する事績や行動がくり返し記されていることがわかる。つまり天皇父子の事績が、あるひとりの王者像から分化させられたものだという説である。

 しかし、原型となる王者が誰なのかは立証されておらず、今でも応神天皇の実在性を肯定する研究者は多い。だが、神功皇后が神話的な虚像であるとするなら、その御子である応神天皇も虚構の王者と解すべきであろう。
 何らかの政治的理由により神功・応神母子にまつわる伝説の造作が必要になったと考えられるのだ。

◎第6回は、9月28日(木)に更新予定です。