多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

戦時体制「小隊長制」は土方の“作品”だった

 江戸に帰還する浪士組から分裂し、「会津藩御預かり」という身分を与えられた歳三たちは、「壬生浪士組」と名乗った。文久3年(1863)3月のことである。彼らはみずからを会津藩の一機関として「局」と称し、そのトップを「局長」、その下に「副長」が配され、その補佐役として「副長助勤」という職制を定めた。局長には芹沢鴨と近藤勇が就任し、歳三は山南敬助・新見錦とともに副長に任じられる。副長助勤は最初に「会津藩御預かり」となったときの隊士が就任し、新規に入隊した隊士は全員が無役の平隊士とされた。力量によるものではなく、ただの身分上の区別である。

 これが新入隊士の増加によって、実力者は平隊士から副長助勤へ昇格し、隊士や横行する浪士の動向を探る「諸士調役兼監察」という準幹部職も設けられたが、平隊士がある副長助勤に直属するというシステムにはなっていなかった。

 副長という立場にある以上、歳三がこの組織編制に無関与であったとは思えないが、近藤勇と芹沢鴨のグループが共存していた時期に、どれほどの発言力があったかは不明である。

 歳三の発言力が増し、明らかに編制への関与が認められるのは元治元年(1864)になってからのことである。

 その年の7月には長州藩の武装兵が御所を警備する幕府軍と衝突する禁門の変が勃発し、長州藩は朝敵とされた。

 長州征伐のための幕府軍の出陣が目前となり、新選組は副長助勤制を、1番から8番までと、小荷駄方を含めた9隊による小隊制に改めている。このときに小隊長を補佐する伍長が選出され、各小隊には直属の伍長と平隊士が配属された。戦場での機動性を求めた戦時編制だ。

 文久3年9月、歳三らは会津藩の命によって芹沢鴨らを排斥し、新選組は近藤勇が全権を掌握している。したがって、その後の組織編制に、歳三が大きく関わっていたことはいうまでもない。

 つまりこの戦時体制である小隊長制は、間違いなく歳三の〝作品〟なのだ。