多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

土方はいつ「小隊長制」への転換を考えていたのか?

 戦時体制の「小隊長制」の契機が池田屋事件にあったことは、容易に推定できる。事件時、新選組の隊士総数は40人で、このうちには病人もあり、連絡役として屯所に残る隊士も欠かせず、出動可能な隊士は34人に過ぎない。これを、鴨川西岸を捜索する近藤勇ら11人の部隊と、東岸を捜索する歳三の23人の部隊とに二分した。さらに歳三は部隊を半数に分け、2隊が同時に別の場所を捜索できるようにしている。つまり、ほぼ10人ずつの三小隊編制にしていたのである。

 やがて近藤隊が池田屋に踏み込んだことを知ると、歳三は現場に急行して自分の率いる2隊のうちの1隊を屋内に投入し、浪士の逃走を防ぐため、自分が率いて屋外の警備にあたっている。

 池田屋事件は突発的に発生したものであり、このような配備は事前に計算できるものではない。しかし、歳三はそれを行った。このことは、すでに歳三が機動力を発揮するために、直属の部下を持つ小隊制への転換を考えていたことを思わせる。

 事件前の4月、郷里へ送った手紙には「今にも君命これあり候わば、速やかに戦死も仕るべく候間……」と、いつでも死地におもむく決意が述べられている。そして、自分のこれまでの行動を伝えられるよう手紙に日記帳を添えていた。漠然とではあっても、この日がくることを予期していたことになる。

 ならば、そのような事態に対応できるよう、組織について考えていたとしても不思議ではない。結果的に、新選組は長州へ出陣することはなかったが、長州藩との〝止戦〟の成立した慶応2年(1866)8月以降に、一応の「戦時」は去ったため小隊長制は廃されたようで、翌年6月の編制では副長助勤制に復されている。もっとも、これは名称のみで、伍長と平隊士は直属していたものと思われる。

 その副長助勤体制で、新選組は翌年1月の鳥羽伏見戦に突入することとなるのだった。