「神の予言を授かった皇后が、崩御した天皇の御子を体内に宿したまま、海の向こうの異国を平定した……」記・紀は神功皇后について、神がった伝説を遺している。とうてい現実とは思えない逸話の数々は、宮廷で語られた古い神話がベースにあった。神功皇后伝説から古代日本の「秘史」に迫る。
『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』(国立国会図書館蔵)より、神功皇后。

女王国に事蹟を伝説に置き換え
誕生した神功皇后伝説

 夫の愛を受け入れるのか、兄の謀計を支持するのかというサホヒメ(第11代垂仁天皇の皇后)の苦悩は、女王制と男王制の歴史的葛藤を象徴する。また兄妹が天皇の暗殺を企てるも失敗し、燃え盛る稲城の中で死んだことは、女王制が廃止された事情を物語っており、サホヒメは記・紀の皇統譜から消去された最後の女王と考えることができる。「最後」とする理由は、彼女がホムツワケ王という子どもをこの世に遺したからである。

 卑弥呼の伝承からわかるように、女王は神の妻として世俗の婚姻がタブーであり、世襲制とは無縁の制度であった。しかし、女王サホヒメは男王世襲制の源拠となる男子を身籠ったのである。それがホムツワケ王で、継体天皇の真実の先祖、言い換えると現在まで続く皇室系譜の起点・始祖だったとみなすことができる。

 ちなみに、サホヒメの婚儀の相手は、女王親衛隊の司令官であったと推定できる。豪族久米氏のこの人物が、イクメイリヒコイサチ(垂仁天皇)の原像である。

 ホムツワケ王の伝承はこう語られる。王は成長してからもまともに物を言えず、心配した天皇は夢の告げにより出雲大神の宮を参拝させる。参拝を終えて出雲国造の饗応を受けた王は一転して立派な成人となり、天皇と同等の扱いを受けるようになったとする。

 ホムツワケの出雲への旅は、実は王が大嘗祭を執行したことを演出したものと考えられ、即位に至る聖性を獲得した王の未来を暗示するものとなっている。ところが、不思議なことにホムツワケ王の物語は突如そこで幕を閉じてしまうのである。

 記・紀の編者は、女王サホヒメとホムツワケ王にまつわる長編の説話を肝心のところで途絶し、これに代えて神功皇后・応神天皇の母子を登場させ実体化しようと企てた。この後のホムツワケ王の伝記の全ては、応神・仁徳・履中の3天皇に関する事績として分割記載されることになったと推定される。『宋書』倭国伝にみえる5世紀初頭の倭王「讃」についても、これまで応神・仁徳ないし履中に擬定されてきたが、史実はホムツワケ王のこととみられる。

 以上を踏まえ、記・紀に隠された史実を復原してみよう。

 女王サホヒメの夫婦は朝鮮半島に出兵する軍を見送るために住吉浦から出航し、瀬戸内海を経て筑紫へ遷幸した。女王指揮下にあった倭軍の渡海は、『高句麗好太王碑文』に記された辛卯年(391)のことであろう。百済軍に合流して高句麗と戦い、分隊は新羅周辺地域にまで進出したようである。王は筑紫の地でサホヒメを母として誕生したと思われる。

 こうした歴史上の遠い記憶が、神功皇后伝説に昇華したのではなかろうか。

 すなわち、ヤマト王権は住吉神話を採りいれながら、女王国の事績を神功皇后のものへと置き換えた。同時に、自分たちの祖先を伝説の聖帝としたのである。