イラスト/フォトライブラリー
江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 青山三右衛門は微禄の旗本で、道楽者だった。江戸城の二の丸火の番を勤めているころ、任務に必要な裃まで質に入れて吉原にかようほどだった。
 当番の日、裃がないので着流しのかっこうで二の丸の門の近くまで来ると、同役の者が夜勤明けで門から出てくるのを待ち受け、言った。
「すまぬ、裃を貸してくれ」
 さすがに同役があきれ、渋るのを無理に頼み込み、他人の裃を着て勤めを果たした。

 こんな青山だったが、順調に出世し、御先鉄砲頭、御持筒頭を経て、文化三年(1806)には鑓(やり)奉行にまでなった。この青山の破格の出世の陰には、当代江都百化物に拠ると、妹ふたりの存在があったという。

 橘町に草花を売る店があったが、亭主が死に、女房と娘ふたりが残された。娘ふたりは幼いころから三味線の稽古にかよい、なかなかの美人だった。
 道楽者の青山は娘たちと同じ師匠のもとで三味線の稽古をしていたため、娘の父親が死んだのを知るや、「よし、これは使えるぞ」と、計画を練った。

 当時、亭主に死なれ、母と娘ふたりが取り残された場合、女房は生活が困窮し、娘のひとりを、あるいはふたりとも吉原の妓楼か岡場所の女郎屋に売る羽目になることが多かった。
 青山が母親に言った。
「拙者にまかせろ。悪いようにはせぬ」
 そして、母娘三人を屋敷に引き取り、娘ふたりを自分の妹にする縁組をした。

 その後、妹のひとりを老中堀田相模守、もうひとりを若年寄板倉佐渡守のもとに妾奉公に出した。ふたりとも三味線が達者な町娘である。折り目正しい腰元を見慣れている男には新鮮な魅力だった。
 それぞれ堀田と板倉の寵愛を受けた。それ以来、青山に出世の道が開けたのである。

 太平の世にあっては、「女」が出世のきっかけになることが多かった。かつての中国の場合はその傾向はもっとはなはだしい。
 娘が後宮にはいり、皇帝の寵愛を受けると、その両親や兄弟はもちろんのこと、いわゆる一族郎党がすべて高位高官に引きたてられたのは歴史書でも有名である。