慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。

しかし、三成の潜伏は村人たちに知られてしまう。すでに田中吉政が三成の捕縛を命じる触れを出しており、もし匿(かくま)ったりすれば、その村全体を罰すると布告していた。 そこへ、百姓の与次郎太夫(よじろうだゆう)が三成を気遣い、山中の岩窟に潜伏すればよいと勧めた。与次郎太夫はかつて三成が面倒をみたことがあったので、その恩義に報いようとしたのである。そして毎日、三成のために食事を運んできたが、三成は逃亡中に下痢を起こして体調を崩して寝込んでいた。

だが、三成の潜伏は村の名主が知るところとなった。与次郎太夫がそのことを告げると、三成もさすがにもう逃れられぬと観念し、これまでの好意を謝し、吉政に告げさせた。敗北から6日後の21日、三成はついに捕縛されたのである。 

なお、この岩窟は伝承では、伊香郡高時(たかとき)村(現・長浜市木之本)にあり、大蛇(おろち)の岩窟と呼ばれている。

三成の捕縛については異説もある。家康の同朋衆、板坂卜斎(いたざかぼくさい)の『慶長記(けいちょうき)』には、三成の行方を探索していた田中吉政の宿所を、ある夜、一人の男が通りかかった。番衆が尋ねたところ、水汲みに行くと答えた。何者も通してはならないという命令だったので、番衆が捕えてみると、これが三成だったという。(続く)

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。