多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

契機となった明保野亭事件

 壬生浪士組は文久3年(1863)4月には新入隊士の募集を開始し、ほどなく「一旦組入りいたし候ものは破談相成らず、絶えて離れ候わば、仲間より切害いたし候」(『彗星夢雑誌』)という隊規が定められた。「入隊者は勝手に脱隊することはできず、無断でしばらく帰隊しなければ殺害する」というものだ。

 この隊規と歳三との関わりについては、組織の編制と同様に、どれほどのものがあったかは不明である。

 また、池田屋事件の諸記録のうちに、新選組の隊規を「出奔せしものは見付け次第、同士(志)にて打ち果たし申すべし」(『元治秘録』)と伝えるものがあるが、これは事件前に20人ほどの集団脱走があったことから、より規制を強化するために打ち出されたものと思われる。

 歳三は農民の子で、俳句や和歌を嗜み、剣術こそ熱心に学んだものの、武士としての教育を受けたわけではない。いわば普通の青年だった。壬生浪士組や新選組では副長に任じられたが、それ以上の意味を感じてはいなかった。もちろん、その間に学ぶことはあったろうが、「組織」というものを強烈に意識したのは、池田屋事件の4日後に起きた明保野亭事件であったと思われる。

 明保野亭事件とは、池田屋事件直後に新選組へ派遣されていた会津藩士が、出動先の料亭・明保野で不審人物を負傷させたものだが、これは純然たる公務であって会津藩士に非はなかった。しかし、相手の土佐藩士が帰邸後に士道不覚悟を理由に切腹し、これによって両藩の関係が険悪になることを案じた会津藩士は、自分も切腹することによって事態を収拾したのである。

 その葬儀に歳三は参列し、涙を流した。

そこには悲しみとともに、藩のために己の命までをも抛つという、武士の生き様への感動もあったに違いない。