多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

組織強化のため厳正な規律の確立を決意した!

 元治元年9月、慶応元年4月と新選組は江戸と京坂で隊士の募集を行い、池田屋事件時に40人に過ぎなかった隊士が、140人を数えるまでに増大した。歳三はこの組織を強固なものとするために、厳正な規律の確立を決意する。

 それが慶応元年閏5月ごろに作成された、永倉新八が「第一士道を背く事、第二局を脱する事、第三勝手に金策を致す事、第四勝手に訴訟を取扱う事」(『新撰組永倉新八』)を禁じたとする隊規であり、この4カ条に違背した者は切腹を命じることも定められていた。

 もちろん、隊士に強要するばかりではなく、今までの自分を殺し、自身をも厳しく律した。だからこそ、この苛酷な隊規に従わせることができるのだ。

 ちなみに昭和3年刊行の『新選組始末記』で、この4カ条に私闘禁止の条項を加えて5カ条とし、文章を当時のように改めたうえで、「局中法度書」と名付けたのが著者の子母沢寛である。

 ある脱走隊士の例がある。その隊士は逃走先で追っ手の隊士に身柄を拘束されたが、そこで処刑されることはなく、わざわざ京都まで連行したうえで、隊士たちの前で切腹させられている。隊規が決して飾り物ではなく、違背者がどうなるかの実例を示したのだった。

 歳三は、あえて「鬼」になったのだ。新選組という組織を守り、最強の武士団とするためにはほかに道はなかった。

 その姿勢は、もはや剣や槍で戦う時代は終わったと認識させられる、鳥羽伏見戦まで続くのである。