多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

新選組の終焉を認めざるをえなかった鳥羽伏見の戦い

 明治元年(1868)1月3日の夕刻に始まった鳥羽伏見戦は、討幕派による新政府軍が旧幕軍を圧倒した。

 伏見奉行所に布陣していた新選組は、負傷した近藤勇に代わって歳三が率いていたが、薩摩軍の砲撃の前に敗走し、5日の千両松、6日の橋本の戦いにも敗れ、戦死・戦傷死の隊士は20人にものぼった。

 白兵戦には自信があっても、銃砲の前には敵に接近することもできないのだ。この現実に、歳三は剣と槍で戦っていた新選組の終焉を認めざるをえなかった。

 多数の負傷者を抱えて江戸に帰還した新選組は、再戦を期して甲府城接収のために出陣する。このとき馬上の歳三は洋装のうえに断髪姿であり、隊士たちも俄仕立ての洋装だった。

 一行は「甲陽鎮撫隊」と名乗って進軍したが、新政府軍は一足先に甲府城を接収した。この報に接した歳三は援軍を求めて江戸に走り、近藤は勝沼宿柏尾に陣を敷き、歳三不在のまま3月6日に新政府軍と衝突するが、わずか2時間の戦いで敗走させられてしまう。

 江戸に敗走した新選組は、意見の衝突から永倉新八・原田左之助らが近藤のもとを去り、ほかに脱走する隊士も続出したが、歳三は彼らを追うことも、引き止めることもしなかった。すでに歳三が求めていた新選組は終わっていたのだ。京都時代のような「鬼」である必要はない。これからは洋式部隊としての新選組を目指す以外になかった。

 京都以来の隊士が50人ほどとなった新選組は五兵衛新田を再起の地とし、新入隊士を募った。半月ほどで200人を超える部隊となり、洋式訓練を施すため流山に転陣したが、4月3日、本陣は新政府軍に包囲され、ほとんどの隊士たちが野外訓練中だったため、近藤は出頭命令に従う。歳三は近藤を救出するため江戸に潜入し、勝海舟らに働きかけたが、ついに近藤は25日に斬首となった。