混乱する幕末京都で鉄の剣客集団新選組の勇名は、日本最古の公許遊廓・島原にも轟いていた。綺羅星のような女性たちから想いを寄せられた隊士たち。
彼らは花街にどのような足跡を残していったのか。忠義に生きた男たちの知られざる素顔に迫る。

田んぼを隔てた向かい合わせにあった花街

 島原は、長い歴史と伝統を持つ京都の花街である。寛永18年(1641)、それまでの立地から朱雀野に移転、幾多の歴史を紡いでいった。文久3年(1863)春に発足した新選組が壬生村に構えた屯所は、島原から真北に1キロの位置にある。地理的な縁は、彼らをこの花街へ誘うのに十分だった。

 花街の灯は、屯所にも目映く照った。新聞記者の鹿島桜巷が、大正3年(1914)に発表したルポ『明治英雄情史』には「(島原と)田圃を隔てて相対しているのが壬生村である。風が持てくる遠き絃歌の声はいかに新選組の諸豪傑の心を嗾ったろう」とある。

 対峙する討幕派ともども、政治の最前線の京都で、ともすれば生死表裏一体の局面に陥る日々を送る彼らに、間近なこの花街への思いは深く切ないものだった。さらに島原に近い西本願寺への屯所移転後も、隊士たちは縁を重ねていった。

 風俗史料『守貞謾稿』嘉永6年(1853)には、島原や大坂の花街新町では、当該女性たちが、揚屋や茶屋の烙印のある札を持ち、外部へ出ることが認可されていたとある。祇園の芸妓・中西君尾からの取材に基づく書の『勤皇芸者』によれば、島原の女性の中には隊士に思いを寄せる者もいたとあり、そんな馴染みの女性を、当の隊士が「ちょっと新撰組の屯所までこの駕籠で来てくれ」と呼び寄せることもあったという。

 島原の他、祇園や北野などの京都花街へも、隊士たちは数々の足跡を残した。

 前記『明治英雄情史』には、幕末京都の花街で「もてた」筆頭は一橋家と会津藩で「京都守護職という羽振りもよし、手当も過分であったから金遣いも綺麗であった」とある。そんな会津藩に連なる新選組を、同等の理由で慕う女性も少なくなかったことだろう。

 だが一方で、慶応2年(1866)9月、新選組がそれまでの借金を返済した上で島原の角屋へ提出した、今後は掛け売りでの利用をしない事を認める証文も残っている。花街での遊興は、厳しい金庫の下で行なわれたことも事実である。

 今ひとつ、隊士が縁を残した場所がある。

 当時、壬生寺の西側と南側に、それぞれ通りを隔て、女性を置いた茶屋が複数あった。美男隊士と伝わる山野八十八が、そんな茶屋のひとつで、高橋八重という女将の営む、やまと屋で働く娘と深い仲になった。子母沢寛の『新選組物語』に紹介された話である。

 明治初年に作られた「壬生村遊女屋絵図」には、壬生寺の西側に並ぶ茶屋のひとつに「高橋鶴」という女将の営む店が確認できる。ここがやまと屋かと思われる。屯所の膝元にも、隊士の心を癒す場があったのである。