日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 
 

代理城主・経家を待つ凄惨な運命

 秀吉は外交交渉が決裂すると、一旦鳥取城攻めを中断。米をはじめ、雑穀などを相場よりも高い値段で買い付け、鳥取城周辺の食料をかき集めた。こうして秀吉は、万端の準備を整えたうえで、本格的な鳥取城攻めに着手したのである。

 豊国を追い出した山名家の重臣たちは、毛利サイドに対して城将の派遣を要請したところ、天正9年3月、吉川経家(きっかわ・つねいえ)が鳥取城に派遣された。3本の矢の教えで知られる毛利3兄弟のうち、長男隆元(たかもと)は父元就(もとなり)に先立って謎の死を遂げ、次男の吉川元春(きっかわ・もとはる)と、3男の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が隆元の遺児輝元(てるもと)を支えていた。

 山陽方面を担当する隆景に対し、元春は山陰方面を受け持っていたことから、同じ吉川一族の経家を鳥取城に派遣したのだ。

 ただし、経家は安芸の名族・吉川家の血を引くのに対し、元春は養子として毛利家から送り込まれており、両者の間には血縁関係はなかった。そのため、経家は、吉川家を乗っ取った元春に対して、よい感情を抱いていなかったようだ。

 天正9年7月から秀吉による鳥取城攻略作戦が開始された。のちに「三木の干殺し」とともに「鳥取の渇(かつ)え殺し」と称される包囲戦の成功の鍵を握っているのは、鳥取城を完全に包囲できるか否かにかかっていた。
<次稿に続く>