日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 
 

切腹を「流行」と切り捨てた元春


 秀吉は、鳥取城に攻め寄せると、城を見下ろせる小高い丘にのちに「太閤ヶ平(たいこうがなる)」と称される本陣を築いた。そして、太閤ヶ平陣から約8キロにも及ぶ包囲陣地を築造必要以上と思われるほど、包囲の陣地を堅固に築くことにより、籠城兵に対して実力の差をみせつけ、戦意を喪失させて、
戦いの早期決着を策したのだ。10月上旬になると、城内から餓死者が続出したことから、25日、吉川経家は城兵の助命を条件にして切腹。なお、豊国を追い出した山名家の重臣たちも切腹を命じられている。

 経家は、敗戦の責任を取って切腹したのだが、同じ吉川一族の元春は、「前代未聞のこと」「当世のはやり」と称し、経家の行為に疑問をなげかけている。

 経家は、城将として鳥取城へと派遣されたに過ぎず、交渉次第では命が保障され、切腹によって責任を果たすほどの状況でもないため、元春は経家の行為を前代未聞とした。

 また、切腹することによって後世に名を残そうという自負心や、自身との不仲もあり、出過ぎた行為とみなし、「当世のはやり」と揶揄(やゆ)したのだ。

なお、本来であれば、鳥取城主として城と運命を共にすべきところ、家臣に追放された山名豊国は、源氏の名門ということで、徳川家康(とくがわ・いえやす)によって旗本に取り立てられ、寛永3年(1626)、79歳で病没するという穏やかな生涯を送っている。
<次稿に続く>