イラスト/フォトライブラリー
江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 吉原の遊女は当時の平均的な女性にくらべ、はるかに高い教養を備えていた。 上客をとりこにするには、たんに美貌だけでなく、教養も必要だったからである。そのため、妓楼は抱えの遊女に様々な稽古事を習わせた。
 農村や、江戸でも裏長屋で育った女の子の多くはまともに寺子屋にかよわせてもらうことはなかったが、吉原の妓楼に売られた女の子は手習いをさせられ、文字の読み書きができるようになった。

 妓楼が遊女に読み書きを教育したのは、当時は手紙が有力な営業手段だったことがある。現在、風俗嬢がこれぞと思う気前のいい客に来店させようとするとき、その手段はメールか電話である。吉原の遊女はせっせと手紙を書くことで、客の心をつなぎとめようとした。
 なお、遊女は大門から外にでることはできなかったため、各種の稽古事にはすべて師匠のほうが出張教授にきた。
『萍花漫筆』に、雲井という遊女のことが記されている。

 

 吉原の京町一丁目金屋の遊女雲井はもとは菓子屋の娘だった。十歳の時に母親が死に、その後は継母に育てられたが、十九歳のときに金屋に売られて遊女となった。
 雲井は俳諧が好きで、師匠に弟子入りし、また書も師匠について学び、とくに楷書が見事だった。

 ある人が雲井の能筆を聞き、わざわざ客となって対面し、言った。
「女が楷書など、四角い文字を書くのは、高慢に見えてよろしくありませぬな。わしがこの金で、そなたの楷書を質草に取りましょう。質に入れた以上、楷書を書いてはなりませぬぞ」
 そして、百両を取り出して渡し、質入れの証文を作成した。それ以降、雲井はけっして楷書を書かず、すべて草書で記した。

 雲井は二十五歳の春、身分ある男に身請けされて吉原を出た。その後は、根岸の地で風雅な暮らしをしたという。

 数は少なかったが、この雲井のようにしあわせをつかんだ遊女もいた。
 それにしても、雲井に楷書以外の書体で文字をかかせるため、質入れという手段を取り、百両を使ったのである。まさに男の「粋」の最上であろう。