イラスト/フォトライブラリー
江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

『藤岡屋日記』に、つぎのような話が出ている。ともに、嘉永二年(1849)のことである。 

(一)
 旗本の青木家に奉公する潤助は駿河の国の生まれで、ことし百八歳になる。
 八十年前、江戸に出てきて、あちこちの武家屋敷で奉公したあと、三代前の主人のときに青木家に奉公するようになった。

 潤助はいたって壮健で、雨の日に外出する際には高下駄をはき、杖もつかない。
 八、九年前、同じく屋敷で奉公する練馬出身の二十歳くらいの下女と情を通じた。その後、女房に迎えて屋敷内の長屋で世帯を持ち、むつまじい暮らしぶりだった。しかし、あまりの年の差に嫌気がさしたのか、けっきょく女房が離縁を求めたという。

 潤助はもともと無筆だったが、七十歳くらいのときに一念発起して手習いを始め、なかなかの手跡となった。

(二)
 北八丁堀に角新という魚屋があった。角新は事情があり、十四歳の親類の娘をあずかっていた。この娘は体が大柄で、とても十四歳には見えなかった。
 茶屋の息子で二十二歳になる男がやはり角新に奉公していたが、この男が娘に言い寄り、ついに深い関係になってしまった。これを知り、角新の主人が怒り、「わしの面目は丸つぶれだ」と、ふたりに折檻を加えた。

 ついにふたりは手に手を取って逃げ出し、大川(隅田川)に身投げをしてしまった。ふたりの脱いだ下駄は新大橋のたもとにあった。遺体が引き揚げられたとき、ふたりの両手は紐で固く結び合わされていたと言う。

(一)の潤助は百歳前後のとき、二十代の女と情を通じたことになる。驚くべき壮健である。
 しかし、いくら壮健とはいえ、やはり百歳を超えると性力の衰えは隠せなかったのであろう。女房が離縁を求めたのは、そのへんに理由があるのかもしれない。

 いっぽう、(二)の娘は十四歳である。当時の年齢は数え年だから、現在の満年齢でいえば十三歳か、十二歳である。
 現代、二十代の男が十二歳の女と情交するのは、性犯罪の範疇である。おたがいに愛し合っていたと言っても通用しない。江戸時代、未成年に対する淫行などという考え方そのものが存在しなかった。