名将武田信玄の後継者、武田勝頼は長篠の戦いでの敗北を端緒として、滅亡への道を急いだ。重臣たちにも裏切られ、敗走を重ねる勝頼はどのような最期を迎えたのか。歴史研究家・渡邊大門氏は、「歴史人」11月号で次のように解説してくれた。

武田勝頼(国会図書館)

「天正8年3月11日、ついに勝頼の最期が訪れた。以下、『甲陽軍鑑』により、最期の様子を探ってみよう。
 3月11日の朝、天目山の郷人たちは、ついに勝頼を裏切った。その数は、およそ6000余。大将の辻弥兵衛が先頭に立って、勝頼に攻撃を仕掛けた。一方、織田方の大将の滝川一益、河尻秀隆は5000余人の軍勢を率い、勝頼に攻めかかった。土地に詳しい郷人たちは、織田方の軍勢に裏に回るよう案内したという。
 武田勢はまったくの無勢で、相手にならなかった。勝頼は嫡男の信勝に対し、武田氏に伝わる重宝の御旗・楯無を持って、奥州を目指して逃げるよう命じた。しかし、信勝は勝頼が北条氏政の娘婿であり、きっと匿ってくれるはずなので逃げるよう勧めた。信勝自身は、十年以上も前に信玄の遺言で武田家の家督を申し付けられたので、ここで切腹をすると述べたのである。このとき、信勝は16歳の少年だった」

 息子の信勝も共に討ち死にしてしまう。信勝の母は、織田信長の姪である。

「織田方は、決して攻撃の手を緩めなかった。残った女房たちは、残った武田の手の者によって介錯された。勝頼の近くには土屋昌恒がおり、弓矢で奮戦をしていたが、敵の槍に突かれ絶命した。勝頼は昌恒の体に刺さった槍を引き抜くと、そのまま敵を6人切り伏せたという。しかし、勝頼は喉と脇の下に計3本の槍を突かれ、ついに織田方に首を取られた。享年37」

 信長は3月14日、浪合(長野県阿智村)で勝頼らの首を実検している。

「信長は『勝頼は日本で知られた弓取りであったが、運が尽きてしまって、このようになってしまった』と感想を述べたという(『三河物語』)。3月15日に勝頼らの首は飯田で晒され、その翌日に京都で獄門に掛けられた。
 晒された勝頼の首は、武田氏と関係があった妙心寺の住職が引き取り、葬儀を執り行った。また、法泉寺の住職・快岳は、勝頼の髪と歯を持ち帰り、同寺に葬ったという。勝頼とその妻、信勝の墓は、甲州市の景徳院にある。景徳院は、徳川家康によって建立された寺院である。景徳院には、勝頼がその上で自害したという石が残っている」

 戦国の名門武田家は、こうして滅亡した。

『歴史人』2017年11月号「滅亡までのカウントダウンと武田家の最期」より。〉