長篠の戦いで織田信長が武田勝頼を破った鉄砲の三段撃ちは本当にあったのか。歴史研究家・小和田泰経氏は、「歴史人」11月号で次のように書いている。

長篠合戦城に残る馬防柵。織田・徳川連合軍はこの柵で、武田騎馬隊を防いだという。

「鉄砲が1000挺あるいは3000挺として、それだけの鉄砲をどのように用いていたのかについて、実のところよくわかっていない。『信長公記』には、織田信長の鉄砲奉行として、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政の5人が指揮を執ったと記されているだけである。

 当時の鉄砲の有効射程距離は200メートルほどしかなかった。しかも、命中精度も低かったから、100メートルほどの距離から撃たなければ、殺傷能力はほぼ無かったといってよい。しかも連射はできず、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかってしまう。この空白の時間に突撃されたら、防ぐ術はなかった。

 この点、小瀬甫庵の『信長記』には「千挺宛放ち懸け、一段宛立ち替わりく打たすべし」とあり、3000挺を3段に分け、1000挺ずつ撃ったと記している。これであれば、空白の時間は無くすことができる。

 ただし、1000挺を1度に発射するのは、現実的ではない。号令も届かないし、敵が同時に攻めてくるとは限らない。鉄砲奉行が5人いたのは事実なので、1000挺であれば200挺ずつ、3000挺であれば600挺ずつをそれぞれの奉行が指揮し、そのなかで連続して射撃できる態勢にしていたのではなかろうか」

 いずれにせよ、この戦いで武田軍は大打撃を受け、滅亡へと歩むこととなる。

『歴史人』2017年11月号「長篠設楽原合戦の真実」より。〉