武田勝頼の死によって武田家は滅んでしまった…のではなく、武田家の血脈は現代まで続いているのだ。確かに武田宗家は途絶えてしまったが、実は信玄の血は脈々と受け継がれてきた。歴史作家・江宮隆之氏は、『歴史人』11月号で次のように解説してくれた。

「勝頼亡き後の武田家は本当に滅んでなくなってしまったのか。実は、信玄の子孫は、天正10年3月以降も連綿と続いている。いくつか例を挙げる。

武田信玄の血脈は今も受け継がれている

 信玄2男の竜宝(母は三条夫人)は、本来ならば義信が自刃した後の後継者のはずだが、生まれながらの盲目であった。信濃小県の豪族・海野幸義の娘を娶って海野二郎信親を名乗ったが、やがて半俗半僧の修行者となり「御聖道様」と称された。天正10年、進駐してきた織田信忠に殺された(自刃説もある)が、出家して「顕了道快」を名乗っていた長男・信道は、そのまま生き延びた。
 その後、大久保長安の庇護を受けていた信道は、結婚もして信正という男児をもうけていた。徳川家康に仕えた長安だったが、その死後に生前の不正行為と謀叛の疑いによって関係者や一族が処罰された際に、道快・信正父子も巻き添えになった。伊豆大島に流された後に、道快は死亡。信正は赦免され、武田旧臣であった磐城藩・内藤忠興に預けられた。ここで忠興の娘と結婚した信正には一子・信興が生まれる。だが、江戸屋敷預かりという立場は変わらない。

 ちょうど5代将軍・綱吉の時代であり、側用人・柳沢吉保全盛期の頃である。吉保の祖父・父は甲斐源氏の血筋を引く武川衆の筆頭であり、家康に仕えた。篤く信玄を敬う吉保は、嫡孫ではないが信玄の血を引く信興の存在を知って、この信興に武田家を再興させることを綱吉に願い出た。信興は表高家(旗本寄合席)として500石を与えられた。16代邦信氏(17代英信氏)まで今に続く「武田宗家」は、竜宝に始まる信玄二男の系統ということになる。

 信玄の6男・信清は勝頼が滅びた時に、安田三郎を名乗って信州にいた。そこから高野山・無量光院に匿われた後に、上杉景勝に嫁いでいた姉・菊姫を頼って越後に赴いた。上杉家で3300石を与えられた信清は「武田三郎勝信」と称した。関ヶ原合戦後、上杉家が米沢に移封された際には1千石に減ったが、その系譜は明治維新後までも続き、子孫たちは代々「米沢武田家」を名乗っている」

 他にも信玄の5男仁科盛信の次男・信貞(信玄6男とは別人)は、その後、家康に召還されて祖母方の油川姓を名乗ったまま350石で家臣となっている。名門武田家の血脈は今なお受け継がれているのだ。

『歴史人』2017年11月号「武田家の血脈と家臣団のその後」より。〉