全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、著者・谷川彰英が「霞ヶ関」の地名の由来を歩く。

霞ヶ関の跡を訪ねる

『新編武蔵風土記稿』には、高麗郡の「仏子(ぶっし)村」の中として、次の記述がある。

 霞ヶ関 村の東北柏原村の界にあり,旧蹟なることは柏原村の條に載す

 つまり、霞ヶ関は仏子村の東北の柏原村の境にあり、旧蹟であることは、柏原村の条で記載すると言っている。その「柏原村」については、「柏原村は郡の東南入間の郡界にあり、霞郷に属す」と記している。

 高麗郡はもともと高句麗からの渡来人を集めて設置された郡で、その当時は「高麗郷」と「上総郷」があったことは平安時代の『和名抄』に記されているが、その後「霞郷」という郷名も成立したのかもしれない。あるいは単なる通称なのかもしれない。いずれにしても「霞郷」に「霞ヶ関」という旧蹟があったというのである。

 さらにこのように記されている。ここが重要なポイントである。

往古越後・信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ、こゝに霞ヶ関と称する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱ふ、坂上に古へ関のありけるよし、其処も今は定かならず、古人の和歌二首、土人口碑に伝えふるもの左にのす、
  春たつや霞か関をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら
  徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の関も春そくれゆく

 ここは重要なので現代語に訳しておこう。

 昔から越後国・信濃国から鎌倉への往還で、今は信濃街道と呼んでいる。ここに霞ヶ関と呼ばれる名所があり、その南にある坂を信濃坂と言っている。坂の上にその昔関があったと言われている。その場所も今ははっきりわかっていない。古人の和歌二首、土地の人に伝えられているものを載せる。

 和歌は下手に訳すよりも自分で味わっていただきたい。2つ目の歌の「あつまち」とは「あづま路」のことである。

 さらに面白いのは、先に『新編武蔵風土記稿』に載っている和歌二首を紹介したが、2つ目の歌は、『江戸名所図会』にも紹介されていることである。この2つを並べてみよう。

徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の関も春そくれゆく(新編武蔵風土記稿)
徒に名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる 読人不知(江戸名所図会)

 同じ歌である。結論的に言うと、一つの「霞の関」を東京都と埼玉県で奪い合っているということである。言葉を換えて言えば、「霞ヶ関」という旧蹟はどこにあったかは江戸の立場からしても不明であるということである。

▲伝説上の旧跡「信濃坂」(入間市)

 旧柏原村にあったという霞ヶ関の跡を訪ねてみた。西武新宿線の「狭山市駅」から西に行くと入間川を渡ることになる。橋をわたると坂が続くが、その辺りが昔の関があったところらしい。今は「信濃坂」という看板だけが建てられている。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉