全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、著者・谷川彰英が「霞ヶ関」の地名の由来を歩く。

多摩市「関戸」説

 このように見てくると、東京の霞が関の信憑性は薄くなっていくのだが、埼玉県の「霞ヶ関」が盤石かと言えば、そうとも言えない事情にある。

 今から500年ほど前に主に東国を行脚して多くの和歌を残した記録がある。道興准后(どうこうじゅごう)による『廻国雑記(かいこくざっき)』である。「准后(じゅごう)」とは「准三宮(じゅさんぐう)」のことで「太皇太后」「皇太后」「皇后」に次ぐ位のことである。これだけの高位にある著者が文明18年(1486)から翌3月まで、北陸、関東、奥州諸国を遊覧した際の紀行文が『廻國雑記』である。

 その中に駿河国から武蔵国に入る過程で残した和歌を多く残している。そのルートは大まかに言って、次のようになっている。

 

「田子のうら」(富士市)→「あしがら山」(静岡県・神奈川県)→「つるぎ澤」(不明)→「蓑笠の森」(不明)→「熊野堂」(不明)→「半澤」(町田市)→「霞の関」(多摩市関戸)→「恋ヶ窪」(国分寺市)「むねをか(宗岡)」(志木市)→「ほりかねの井(堀兼の井)」(狭山市)→「いるま川(入間川)」→「くろす川」→「河越」(川越市)

 ここに「霞の関」という地名が見える。このルートで行くと、東京都の町田市の「半澤」から「霞の関」を通って国分寺市の「恋ヶ窪」に向かったことになっている。「恋ヶ窪」は現在のJR西国分寺駅のすぐ東に位置し、かつては鎌倉街道沿いの宿であった。

 ということは、ここでいうところの「霞の関」というのは川越市の霞ヶ関ではなく、現在の東京都多摩市の「関戸」であるというのが通説になっている。道興准后はこう記している。名に聞し霞の関を越て。これかれ歌よみ連歌など言捨てけるに。

  吾妻路の霞の関にとこしえは 我も都に立そかへらん
  都にといそく我をはよもとめし 霞の関も春を待らむ

 ここには都を懐かしむ道興准后の気持ちがよく表現されている。
 このような経緯から、現在では「霞ヶ関」の旧蹟はこの多摩市にあったとする説が強くなっている。この地に関が設けられたのは建保(けんぽう)元年(1213)のことで、鎌倉幕府が北関東からの防衛上の要所として関所を設けたことに始まるとされる。

▲多摩市の「霞ノ関南木戸柵跡」(左手の棒柱)

 京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」で降りて、車でしばらく行ったところに関戸熊野神社がある。この神社の前の通りは旧鎌倉街道で、神社の参道には「霞ノ関南木戸柵」の跡が復元されている。正確には「霞ノ関南木戸柵跡」とされる。

 結局、東京の「霞が関」と埼玉県川越市(狭山市)の「霞ヶ関」と東京都多摩市の「霞ノ関」の三つ巴の状況だが、これが「霞ヶ関」の現況であると考えていただいていい。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉