教師による不祥事が後を絶たない。教育熱心で、かつ生徒からも信頼される先生は幻想なのだろうか。「パーフェクトティーチャーはいないが、カリスマ教師はいる」と言うのは高校教師として37年のキャリアを持ち、教育分野で問題提起を続ける諏訪哲二氏だ。最新刊『教育改革の9割は間違い』よりその真意を解説する。

子どもに値踏みされている

 私は「スーパーティーチャー」や「パーフェクトティーチャー」は居ないが、「カリスマ教師」や「自己過信ティーチャー」は居ると思っている(大学教授はまるで質が違うと思うが)。

 

たとえば、尾木直樹氏はもう教育現場(高校・中学)を離れて二十数年経つと思われるが、まだ「自己過信ティーチャー」を演じている。

 尾木氏が教育評論をやるのはいいが、まるで現場の教師のように、子ども(生徒)とのやりとりを自信を持ってあれこれ語るのは良くない。子どもとのやりとりは評論ではない。

 尾木氏は『週刊文春』(二〇一五年三月五日号)「阿川佐和子のこの人に会いたい」に呼ばれてオネエ言葉であれこれ話し、後記に当たる「一筆御礼」で〈そんな柔らかい語り口で不良生徒を叱ったところでナメられるのではないかと心配になりますが、「そんなことないの。最初に子供の心に共感しておけば、そのあとビシッと叱ってもちゃんと聞いてくれるのよぉ」〉と色っぽく語ったと書かれている。

 もう尾木氏はとうの昔に中学教師ではなくなっているし、子ども(生徒)とのやりとりを自慢げに語っても、現実にうまくいくかどうかはわからない。もう証明できないのだから、いま「自己過信ティーチャー」を演じるのは明らかに反則である。

〈最初に子供の心に共感しておけば〉も意味不明だ。子どもはそんなに簡単に教師に「共感」させることはないし、だいたい、その子が教師の「共感」を本当のことと受け取っているかどうかはわからない。教師が勝手にそう思い込んでいるだけである。

 私も何度もそういうミスを犯した。尾木氏は、子どもを教師に操作できる対象のように考えているのではないか。あるいは、自分のような完璧な教師に不可能はないとでも思い上がっているのか。

 いま教師は「ふつう」であり続けることが困難な時代であり、子ども(生徒)に対する教師としてのありようは、子ども(生徒)たちのそれぞれによってそれぞれに値踏みされている。こちらの真情は必ずしも伝わらない。子ども(生徒)が教師のありようを決めている。

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