イラスト/フォトライブラリー
江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 彦根藩に向坂次郎右衛門という藩士がいた。 
 江戸の藩邸で、向坂が使っていた奉公人の男が腰元と密通し、妊娠させてしまった。当時、彦根藩では屋敷内の風儀は厳格で、こうした密通の男女は死刑に処された。不憫に思った向坂はふたりをひそかに逃がしてやった。
 その後、向坂の処置が発覚し、ついに屋敷から追放されてしまった。

 浪人となった向坂は妻と、麹町あたりの裏長屋で困窮生活を送った。
 延享三年(1746)、かつて向坂に逃がしてもらった男は浅草に住み、行商人となって紙帳を売り歩いていた。紙帳は紙製の蚊帳である。
 たまたま麹町の裏長屋に行ったところ、紙帳を買いたいと声をかけてきた中年の女がいる。男は向坂の妻に似ていると思ったが、その場はそれですませ、近所でそれとなく聞いてみても、「もとはお武家らしいという噂があるけど、くわしいことは知らないよ」という答えが返ってくるだけである。

 そこで、男はあらためてさきほどの女のもとを訪ねた。
「卒爾ながら、向坂次郎右衛門さまのご新造さまではございませんか」
「なぜ、そんなことを」
「じつは、わたくしは」
 と、かつてのいきさつを話す。ふたりは涙にくれた。

 
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