倒幕へと舵を切った歴史的な転換点、「薩長同盟」。それまで対立していた薩摩藩と長州藩を結びつけた立役者として、坂本龍馬の名が上がりがちだが、実は西郷隆盛の働きかけも大きな影響力を持っていた(雑誌『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より)。

◆内戦の無意味さを痛感し長州との交渉役を担う

 

 元治元年(1864)2月、2度目の遠島から鹿児島に帰還した西郷は、3月には早くも鹿児島を出て京都へ向かった。京都に到着した西郷は軍賦役(軍司令官)に任命されている。その年の6月5日、長州藩や土佐藩などの尊皇攘夷派志士を、新選組が襲撃し殺害する池田屋事件が起こった。それに激昂した長州藩は、大軍をもって京都へ進軍したのである。
 これに対し京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)は、薩摩藩に援軍を要請。だが西郷は「池田屋事件は会津藩預かりの新選組と長州藩との私闘」と断じ、出兵を拒否している。薩摩藩は、あくまで御所の守護に専念すべき立場であると主張した。

 7月19日、長州勢は蛤御門(はまぐりごもん)を中心に御所の諸門で幕府軍と衝突した。西郷は当初、事態を静観していたが、長州軍が御所に迫ると兵を率いて駆けつけ、自らが被弾しつつも長州軍を撃退。この禁門の変後、朝敵となった長州藩を討伐する軍が派遣されることになった。こうして第一次幕長戦争(長州征伐)が勃発。西郷は薩摩藩代表として、征伐軍参謀に任命された。
 一方、長州は同年8月、米英仏蘭艦隊に下関を砲撃され、砲台を占拠・破壊されていた。列強との力の差を思い知らされた藩内では、攘夷決行を考え直す動きが生じていた。西郷は長州の内情を知り、征伐軍総督の徳川慶勝(よしかつ)に「武力を使わずに長州を恭順させるのが良策」と進言。自ら交渉役となった。

「欧米列強と日本の実力差を痛感していた西郷は、国内で争うことの無意味さを熟知していました。さらに幕長戦争中の9月、西郷は勝海舟と会談し『幕府には政権担当能力はない』と聞いています。この頃から西郷の脳裏には、雄藩連合による新政権樹立の構想が芽生えていたのでは」と原口さん。
 そのため西郷は、何としても内紛を収める決意とともに長州へと赴いたのだ。最終的には命の危険も顧みず下関まで乗り込んだ。そんな西郷の真摯な説得に、長州藩も講和を承諾。こうして第一次幕長戦争は、血を流すことなく12月に終結したのである。

 西郷が坂本龍馬と初めて会ったのもこの騒動の最中だった。龍馬は、勝海舟に西郷の印象を「もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だ」と語っている。

 
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