幕末と現代を隔てるのは、約150年という時間だ。タテマエにせよ男女同権が守られる現代と、そうではなかった幕末とでは「女性の人生」は大きく違う。これは動乱の幕末を、与えられた環境と条件のもとに生き抜いた美女たちの「肖像」である。今回紹介するのは、陸奥宗光の妻。

◆国内外から美貌を讃えられた社交界の華、陸奥亮子

亮子の夫、陸奥宗光(国立国会図書館)

「旗本のお姫様」として生まれた亮子だが、実母は妾。幸せな少女時代ではなかったようだ。しかも明治維新後、実家は没落。亮子は新橋で芸者とならざるをえなかった。時に体罰を受けながらも芸の稽古に専念する思春期を過ごした亮子だが、「小鈴」の名前で芸妓としてお座敷にあがるようになってからは、その美しさで高い人気を得る。政界のお歴々から口説かれる亮子だが彼らになびかず、結果的に「男嫌い」などと誹謗された。彼女の態度は、密かに慕っていた陸奥宗光への想いゆえともいわれる。

 亮子が陸奥の後妻になったのが、明治6年(1873)、17歳の時。先妻が亡くなってわずか三カ月後のスピード再婚だった。亮子にとっては芸者から政治家の奥方への華麗なる転身だったが、苦労は続く。後に「カミソリ大臣」とあだ
名される陸奥には敵も多く、明治11年(1878)には政府転覆活動に加担した罪で、投獄されてしまったのだ。

 

 宮城牢獄から陸奥は亮子に何通ものラブレターを送った。陸奥の友人宅に、子どもたちや姑と共に身を寄せていた当時の亮子にとって、夫からの手紙は励ましになったことだろう。漢詩が添えられていることもあった。「夫婦天涯別れること幾春ぞ」の一節は有名だ。

 しかし陸奥から大量の手紙が贈られた理由には、美しい亮子が別の男のモノになってしまうのではないかという恐れや嫉妬、さらには後ろめたさもあったようだ。陸奥は宮城監獄で働く洗濯女に手を出し、女児まで産ませていたのだ。陸奥の女性問題はこれだけで終わることなく、それに終生悩まされ
る亮子ではあった。

 明治15年(1882年)、特赦によって出獄した陸奥は政界に復帰、順調に出世していく。
 明治21年(1888)には駐米公使となった陸奥を支えるべく、共にアメリカに渡った亮子は英語を駆使、現地の高官やその妻たちと渡り合った。彼女の堂々たる態度は「ワシントン社交界の華」と讃えられるほどだったという。

『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より構成〉