西郷隆盛の最も偉大な業績のひとつ、江戸無血開城。布石となる大政奉還や王政復古も西郷が推し進めていた。ここでは西郷の政治手腕と、無血開城を実現させた“ある人物”とのやり取りを掘り下げて紹介する(雑誌『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より)。

◆大政奉還や王政復古も西郷が主導して進めた

 慶応2年(1866)6月、第二次幕長戦争は薩摩抜きで始まった。その結果、幕府軍は薩摩名義で入手した最新兵器で武装した長州軍に各地で惨敗を喫する。さらに7月には将軍徳川家茂が死去。15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)が巻き返しを宣言するも、小倉城陥落の報を受け休戦へと踏み切った。
「慶応3年には西郷は、政治主導に固執する徳川幕府に見切りをつけ、倒幕も視野に入れたと考えられます。3月には700の薩摩兵を率いて上洛。それは5月に開催する四侯会議の下準備でした」と、鹿児島大学名誉教授で大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を務める原田泉さんは話す。

 だが島津久光、松平春嶽(しゅんがく)、山内容堂(やまうちようどう)、伊達宗城(だてむねなり)の四侯に徳川慶喜を加えたこの会議は、慶喜の政治力がいかんなく発揮された。その結果、西郷や大久保、それに小松は将軍職廃止と政変を模索。薩摩は土佐と「大政奉還・王政復古」の構想を協議し、結果「薩土盟約」が結ばれた。芸州(広島)も大政奉還を計画していたことから、薩芸土の三藩で協議を続けた。

 西郷は慶喜が大政奉還を拒否した場合を想定し、各藩に兵力の必要性を説いた。だが土佐の出兵は実現せず、薩土盟約は9月に破約。それでも10月初旬には土佐、芸州も建白書を出したことで、慶喜は10月13日に二条城大広間に在京の諸藩重臣を招集、大政奉還を諮問し、翌日大政を奉還した。この時、薩摩藩と長州藩には倒幕の密勅が下されていたのである。

 西郷は倒幕の密勅を持ち、一旦薩摩に帰国すると藩論をまとめ、藩主島津忠義(しまづただよし)を奉じ、3000の兵を率いて再び上洛した。京都に着いた西郷は、王政復古発令の工作を始める。大政奉還だけでは、幕府の力は衰えないと考えたのだ。

 
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