天下人秀吉と親密すぎる関係を築きながらも、切腹を申し付けられた千利休。その切腹はどのように行われたのか。切腹の様子について、歴史研究家・小和田泰経氏は、「歴史人」12月号で次のように解説している。

千利休屋敷跡

「秀吉は、天正19年(1591)2月13日、利休に謹慎を命じた。つまり、突如として切腹を命じたわけではなかったのである。謹慎の命令を受けた利休は、京の聚楽屋敷を出て、堺の屋敷に入った。このとき、秀吉は、利休が謝罪にくるのを待っていたともいわれる。この時点で利休が自ら謝罪していれば、一命は助けられたのだろう。しかし、すでに切腹を覚悟していたらしい」
 秀吉は、謝れば許してやる気でいたのか。なぜ利休は素直に頭を下げなかったのか。謎は多い。

「謹慎した利休が謝罪を申し出ることはなく、2月25日、秀吉は大徳寺の山門に安置されていた利休の木像を引きずりおろすと、利休の聚楽屋敷に近い堀川の一条戻橋で磔にした。利休が再び上洛を命じられたのは、翌26日のことである。利休は堺から上洛して聚楽屋敷に戻ったが、その屋敷は、上杉景勝の軍勢3000によって厳重に警護された。
 それから2日が経った28日になって、利休は上杉方から密かに切腹の命令が出たことを知らされたらしい。この日は霰の降る荒天で、雷鳴も轟いていたと伝わる」

 

 利休は訪れた3人の検使に茶を立てており、これは利休最後の茶会となった。
「茶事がすむと、利休は蒔田淡路守の介錯で切腹した。享年70。ちなみに、蒔田淡路守は、利休の門弟でもあった。切腹の詳しい様子は伝わらない。腹を切ろうとする瞬間に介錯されたのではなかろうか。利休の後妻であった宗恩は、無言で夫の遺骸に白い小袖をかけたという」
 茶人とは思えない最期だった。

『歴史人』2017年12月号「千利休の謎22」より〉