耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
平等寺 聖徳太子石像
聖徳太子伝説
1、母が宮中の厩の戸にあたった時に安産で生まれた
2、生まれながら言葉を話すことができ、聖人の智を持っていた
3、耳がよく、成人後は十人の訴えを聞き分けた
4、未来のことを予言できた
5、父の用明天皇に寵愛され、幼少期は特別に上宮とよばれる宮殿に住まわされた

◆名前の由来を強引に説明しようとして聖徳太子の伝説が生まれた

 有名な「厩戸」であるが、この時代、皇子女の名前は彼らを養育した豪族のウジナ(豪族の本拠地である地名か、または豪族の世襲の職務を示す職名)に由来するのが一般的であった。ところが、厩戸というウジナの豪族も地名もみあたらないために、その名の由来を何とかして説明しようとして、上記①のような異常な誕生伝説が作り出されたわけである。近年では、厩戸とは舒明天皇も一時滞在した宮殿があった「厩坂」に由来するのではないかとする説もあるが、はっきりしたことはわからない。

「豊聡耳」は「とよ・と・みみ」と分解が可能である。「とよ」は美称、「と」は未詳であるが、「みみ」は神やその霊威をあらわす「み」を重ねていったものであり、「と」も同様の語義だったとみられる。この「と」をあらわすのに「聡」の字をあてたために、生まれながら言葉を話し、聖人の智をそなえていたという太子の聡明さを語る②や④の伝説が生み出されることになった。

 また、「みみ」には本来の意味とは関係なく耳の字をあてたので、太子は特別に聴覚のすぐれた人だったに違いないとされた。こうして、十人の訴えを正確に聞き分けたという③の伝説が語られるようになったのである。以上のように、太子の超人伝説は、すべてその名前の由来を説明しようとして生み出されたということができる。