イラスト/フォトライブラリー
江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 十一代将軍家斉は好色で知られるが、その寵愛を一身に集めたのが側室のお美代の方である。
 お美代の方の実父は日蓮宗の祈祷僧で日啓といった。僧侶は妻帯を禁じられていたから、そもそも子供がいること自体、日啓が破戒僧だった証拠である。

 さて、日啓はお美代の方を通じて大奥に影響力を強め、将軍家斉の信頼も得た。もう、こうなると思うがままである。
 ついには、家斉から雑司谷鼠谷に大寺院を建立する許可を得た。敷地は三万坪という壮麗な大伽藍で、天保七年(1836)に完成した。鼠谷の感応寺である。

 感応寺は家斉のお声がかりの祈願寺ということで、家斉の子供たち、御三家や御三卿、諸大名やその家族の参詣も多かった。また、その代参のため、大奥の奥女中の参詣もしばしばだった。
 やがて、江戸の人々のあいだでこんな噂がささやかれるようになった。
「代参にかこつけて感応寺に参詣する奥女中が、坊主どもと淫らなことをしている」
 さらには、大奥から寄進としてしばしば長持が持ち込まれたが、錠をはずしてあけると、なかには生人形がはいっていたという。
 生人形と称していたが、実際は生身の人間で、すなわち奥女中だった。奥女中同士が結託して、長持にはいって大奥を抜け出し、感応寺で淫行にふけっていたのである。

 

 寺社奉行はうすうす感応寺の醜行に気づいていたが、お美代の方という背景があるためうかつに手は出せない。
 家斉の死後の天保十二年、幕府が動き出し、日啓は遠島となった。さらに、感応寺は廃寺となった。

 大奥にかかわる醜聞だけに、ほとんど隠蔽された。不明な点が多いことがすなわち、奥女中の淫行の証拠といえるかもしれない。
 多くの江戸市民は、大いに参詣者でにぎわっていた感応寺が建立からわずか七年で突如廃寺となったのを知り、狐につままれた気分だったろう。

『燈前一睡夢』に拠ったが、著者の大八木醇堂は幕臣である。大奥の風聞も
耳にはいる立場だったのであろう。