耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
平等寺 聖徳太子石像

◆後継者を巡って襲撃、挙兵…親族内で続く争い

 当初は欽明の長子の箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのおうじ)が即位する予定であったが、彼が夭折してしまったので、その同母弟である敏達天皇が立つことになった(572年)。後述するように、敏達は皇后の制度を創始し、異母妹でのちの推古天皇をそれに任命した。推古は皇后として敏達の政治をサポートした。
 敏達が亡くなると、その異母弟であり太子の父である用明天皇が即位した(585年)。しかし、これはすんなりと決まったわけではなかった。用明は欽明の妻の一人、蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ、稲目の娘)が生んだ第一子であり、欽明の皇子たちのなかで敏達に次ぐ年長者だった。有力豪族らの意見は用明の推戴で一致していたらしいが、これに異を唱える者があらわれた。

 
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