幕末から明治初頭にかけて、志と信念を持つ者が次々と刃に、あるいは銃弾に倒れ、多くの血が流れた。それほど多くの命を踏み越えねば、明治維新は成り立たなかったのか。維新までの軌跡を、京都・霊山歴史館の木村武仁学芸課長のナビゲートで追っていく。今回取り上げるのは、長州=朝敵を決定づけた「禁門の変」(雑誌『一個人』2017年12月号より)。

◆挙兵上洛するも戦に敗れ窮地に立つ“朝敵”長州藩

「八月十八日の政変」以降、長州藩は御所警備の任を解かれ、藩主親子の毛利敬親(たかちか)と定広は国許での謹慎を命じられていた。
 元治元年(1864)、6月4日、この日は奇しくも池田屋事件の前日だったが、長州藩は失地回復を目指して率兵上洛することを決定した。

「率兵上洛については、桂小五郎や高杉晋作らは、慎重な立場を取っていましたが、6月5日に池田屋事件が起き、長州藩にとって反撃の絶好の理由となったはずです。実際、6月16日、家老の福原越後が兵を引き連れて京へと進発していますが、出兵の理由はあくまで“攘夷を国是とする嘆願”と“毛利親子や五卿の赦免”としていました。しかし、その本当の目的は長州にとっての敵、君側(くんそく)の奸(かん)である、会津藩や薩摩藩を排除することでした」と木村さん。

 禁裏御守衛総督だった一橋慶喜は「大軍を擁して京都に迫るだけでも大逆行為である。追討するべし」と長州に対して強硬的な態度をとり、京都守護職の松平容保も同意見だった。孝明天皇も「昨年夏の政変は朕の真意である。今さら長州人の入京を許すわけにはゆかぬ」と言い、大勢が決まった。

「ところが武力討伐を唱えていたはずの慶喜が長州勢に対して撤兵の説得を開始します。慶喜の和平工作は暴発を遅らせる効果はありましたが、実は、逆に戦闘を大きくしてしまったとも言えます。なぜなら、その間に、長州兵や幕府側の兵を続々と京に送り込む結果になったのです。当時の京都の人口は約50万。そこへ幕府側の兵と、長州兵が集まったため。京はたいへんな騒ぎとなりました」。

 7月18日夜半、いよいよ長州藩は京都市中へと、三方から軍事行動を開始した。

 
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