幕末から明治初頭にかけて、志と信念を持つ者が次々と刃に、あるいは銃弾に倒れ、多くの血が流れた。それほど多くの命を踏み越えねば、明治維新は成り立たなかったのか。維新までの軌跡を、京都・霊山歴史館の木村武仁学芸課長のナビゲートで追っていく。今回取り上げるのは、討幕を加速させる原因となった「近江屋事件」。(雑誌『一個人』2017年12月号より)。

◆みぞれが降る極寒の夜、ひたひたと忍び寄る刺客

坂本龍馬(国立国会図書館蔵)

 慶応3年(1867)の10月、坂本龍馬は寓居(ぐうきょ)を酢屋から近江屋に移した。薩摩藩の吉井幸輔は龍馬の身を案じ、二本松の薩摩藩邸に入るように忠告したが、龍馬は「土佐藩邸に入らずに薩摩藩邸に入れば、土佐藩への嫌味になる」と断りを入れた。

「龍馬は、最初の脱藩を許された時、土佐藩邸で7日間の謹慎処分を受けた時の嫌な思い出があったのかもしれません。また下級武士である龍馬にとって、上級武士が偉そうにしている土佐藩邸に入ることも煩わしく感じたのでしょう」と木村さん。

 龍馬は近江屋の土蔵を隠れ家にし梯子をかけて、いざとなれば裏の称名寺(しょうみょうじ)の墓地を通って、土佐藩邸に逃げ込む逃走ルートを確保していた。ところが風邪をひいてしまい、11月14日、母屋の奥の八畳間に移ったのである。

 この日は来客の多い日で、午後3時頃に中岡慎太郎が近江屋を訪ね、さらに板倉(淡海)槐堂(かいどう)が来て、自筆の寒椿白梅図を龍馬に与えていた。この掛軸はその夜、龍馬の血しぶきを浴びることになる。

 その夜、腹を空かせた龍馬は、菊屋峯吉(みねきち)に軍鶏を買ってくるように頼んだ。この日は、みぞれ混じりの非常に寒い日で、風邪気味の龍馬は、真綿の胴着を着込んで厚着をして、火鉢にあたりながら慎太郎と語り合っていた。

 午後8時過ぎ、何者かが近江屋の戸をドンドンと叩き、「坂本氏に至急面会したい」と言った。山田藤吉が表戸を開けると、見知らぬ男が「十津川郷士(とつがわごうし) 」を名乗って、懐から「札名刺」を取り出した。
 藤吉は二階の札を渡して引き返したところを、突然、抜刀した男に斬られて倒れ込んだ。その音を聞いて、龍馬は「ほたえなや」(土佐弁で「静かにせい」)と一喝した。

 
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