耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
平等寺 聖徳太子石像

◆父・用明の死後に即位した崇峻を廃し、聖徳太子らが推古天皇を推戴

 用明天皇の死去後に物部守屋が大臣の蘇我馬子らによって討たれる。それは、朝鮮半島の百済から伝来した仏法の受容をめぐって両者が争っていたからとされる。だが、実際に守屋が討たれたのは、彼が穴穂部皇子(聖徳太子の叔父)の命をうけて用明の王宮を襲撃した責任を問われたためと考えられよう。他方、穴穂部は守屋が滅ぼされる前に討たれているが、それは彼が「逆賊」守屋に擁せられる危険性があったためであろう。万が一、守屋が穴穂部を擁することになれば、攻め滅ぼすのに困難を極める。

 穴穂部・守屋の滅亡後、用明の異母弟である崇峻天皇が即位するが、彼も非業の最期を迎える(592年)。彼は叔父にあたる蘇我馬子と対立したために暗殺されたといわれるが、そうではあるまい。崇峻没後には政治的経験や実績のある前皇后たる推古が直ちに即位していることからみて、崇峻よりも天皇に相応しいとして、馬子を筆頭とする重臣層が崇峻を廃して彼女を推戴したと考えるのが妥当であろう。

〈次稿に続く〉