当初、皇后には推古のような皇女がえらばれたが、それは天皇を支えて国政に関与する皇后には何よりも政治的な力量が不可欠であり、天皇の血を引く皇女のなかにはそのような資質にめぐまれた者がいるとみなされたからに違いない。

 用明天皇の皇子だった聖徳太子はたしかに天皇になる資格をもっていたが、当時まだ20歳前後であった彼は政治的な経験と実績がかならずしも十分ではなかった。それに対して、推古は敏達の皇后として約9年、その後、前皇后(後世でいうところの皇太后)として6年ほど、都合およそ15年にわたり政治に関わった経験と実績をそなえていた。この時、彼女は39歳であった。
 聖徳太子はもちろん、敏達の皇子である押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父、天智天皇・天武天皇の祖父)や竹田皇子らが束になってかかっても推古にはかなわなかったであろう。
 推古はやむをえず擁立されたのではなく、崇峻没後、王権の危機という状況のもと、彼女以上の適任者はいなかったために即位におよんだのである。

 推古の在位はおよそ36年におよんだ。彼女が75歳でこの世を去る約7年前に聖徳太子は逝去し、ついに天皇となることはなかった。生前譲位のシステムがない当時、結果的に推古の長期在位が太子の即位の機会を奪うことになった。
 だが、推古は亡くなる間際、遺詔により天皇としては初めて次期天皇(舒明)を指名することになるのである。推古が有力豪族の合議を抑えて新天皇を決定できたのは、ひとえに彼女がおよそ半世紀にわたり国政の中枢にあり続けた経験と実績によることは明らかであろう。

〈次稿に続く〉