薩摩・長州両藩を中心とした「維新」を成し遂げるために、避けて通れなかったとされる「戊辰戦争」とは何だったのか。作家の星亮一さんにお話を聞き、「あの戦争」を敗れた会津藩、幕府軍の視点から考える。今回取り上げるのは、会津戦争(雑誌『一個人』2017年12月号より)。

◆白虎隊の悲劇に一族自決、焼け落ちた会津の城下町

 薩長軍が会津に迫る。
「会津藩は薩長軍の侵攻に備えて会津七口と呼ばれる藩境峠に兵を配備していた。主力は全部そちらへ回していた。城に籠城することなんか考えてもいなかった」。

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 会津を愛する歴史家・星さんの説明は、熱を帯びる。
「城に籠って戦さをするなら敵兵が身を隠せないように城下町の家々を壊しておくとか食糧や弾薬を備蓄しておくとか第二の壕を掘るとか橋を落としておくとか人々を避難させておくとか、やらなきゃいけないことはたくさんある」。
 会津藩は、なにもしていなかった。米だけでも蓄えて置こうと進言した人間は、藩の重臣によって左遷された、と星さんは言う。

「会津藩は、戊辰戦争が始まってから慌てて兵制を改革した。年齢別の部隊を組織した。16、17歳の白虎隊みたいに。そしてそれぞれに鉄砲を持たせたけど、厳しい身分制はそのままだった」。
 会津藩の藩士は羽織の紐と襟で差別されていた。なにしろ保科正之以来、代々続いた“朱子学”好きだ。世襲制も強く、会津盆地から出たこともなく、新しい世界を知らない無能な“重臣”が主導権を握っていた、と星さんは自分のことのように腹を立てる。

「情報戦にも弱かった。新政府軍が“会津藩は強いから仙台を攻める”なんて偽情報を流すとコロッと騙されてしまう」。
 たとえば――母成峠(ぼなりとうげ)が破られたのが8月21日の早朝、敗報が鶴ヶ城に届いたのが翌22日の朝、新政府軍が猪苗代湖北西畔の十六橋に攻め寄せて占領したのが22日の夕方――。対応が遅い。

 
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