いまも語り継がれる哲学者たちの言葉。自分たちには遠く及ぶことのない天才……そんなイメージがある。そんな「哲学者」はいかに生き、どのような日常を過ごしたのか? ストア派の祖・ゼノンは師事したキュコニコス派のクラテスやヒッパルキアに「奇行」を命じられる……そのとき取った行動とは。ゼノンの人生<後篇>。

前回まではこちら『「ストイック」な男が出会った「奇行」を取る師~ストア派創始者・ゼノンのルーツ』

感謝を忘れなかったゼノン

 しかし、ゼノンは途中で恥ずかしがり、スープが入った鉢を隠してしまった。その様子を見て怒ったクラテスは、杖で鉢を叩き割った。そして、ゼノンがスープを足にこぼしながら逃げ惑うのを見ながら「なぜ逃げるのかね、フェニキアの小僧。何も恐ろしい目にあっているわけではないのに」と一喝したという。

 このような出来事に嫌気がさしたのか、ゼノンはやがてクラテスの下を離れて、プラトンの系譜を継ぐアカデメイア派や他の様々な学派で学ぶようになる。

 ある時、他の哲学者の下で学んでいると、突然クラテスが現れてゼノンの服を掴み、無理やり連れ帰ろうとしたことがあった。
 それに対してゼノンは「クラテスさん、哲学者を掴まえる利口なやり方は耳を通じて掴むことです。ですから、わたしを説得して、耳を通して連れて行ってください。無理矢理連れていくなら、わたしの身体はあなたの下にあるとしても、心は元の場所に残るでしょう」と言って抵抗した。
 こういった経緯があったにも関わらず、ゼノンの思想にはクラテスの影響が見られるし、クラテスとの運命的な出会いへの感謝も忘れなかったようだ。後年になってもゼノンは「わたしが難破したのは、今になってみると、わたしには良い航海だったのだ」と言ったそうだ。

 

 40歳頃、ゼノンはアテネ中心の広場(アゴラ)にある彩色柱廊で哲学の講義を始める。彩色柱廊はその名の通り、様々な装飾が施され、絵画が飾られていて、大きな柱が並ぶ場だった。ここが「ストア・ポイキレ」と呼ばれていたことに因んで、ゼノンと弟子たちの学派が「ストア派」と呼ばれるようになったのである。
 彩色柱廊はずっと昔にはアテネを象徴する場の一つであったが、ゼノンの時代から約100年前、三十人政権が1400人もの市民の処刑を行った場となったことから、いつしか人があまり寄り付かない閑散とした場所となっていたようだ。それがゼノンにとって人が少なく静かに講義を行うためにの絶好の場と感じられたのだろう。