幕末から明治初頭にかけて、志と信念を持つ者が次々と刃に、あるいは銃弾に倒れ、多くの血が流れた。それほど多くの命を踏み越えねば、明治維新は成り立たなかったのか。維新までの軌跡を、京都・霊山歴史館の木村武仁学芸課長のナビゲートで追っていく。今回取り上げるのは、幕府終焉の幕開け、鳥羽伏見の戦い。(雑誌『一個人』2017年12月号より)。

◆近代国家への道を拓く戦いの幕開け

明治時代の徳川慶喜(写真/国立国会図書館)

 大政奉還ののちも、武力討幕派は、徳川勢力を一掃したいと考えていた。そして、王政復古の大号令というクーデターを起こし、小御所会議が開かれた。依然として前将軍の徳川慶喜が広大な領地と強大な軍事力を持っていたため、慶喜の辞官納地、つまり内大臣の辞職と徳川領400万石の返上が議論されたのである。

 一方、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、山内容堂、後藤象二郎ら公武合体派が、慶喜を擁護する側に回り、慶喜を参内させて、議定の席を与えて新政府の一員にしようと朝廷工作を行っていた。この慶喜復権の動きに危機感を抱いた薩摩藩の西郷隆盛は、江戸の三田藩邸に浪士を集めて、放火や強盗などで市中を攪乱させ、旧幕府軍の暴発を誘発させる作戦に出た。すると江戸市中の警備を担当していた庄内藩などの藩兵が、三田の薩摩藩邸を焼き討ちにした。

 このことで、戦闘を回避して、新政府の一員になろうとしていた慶喜の希望は絶たれてしまう。旧幕府軍は「薩摩討つべし」と上京の準備を整え、薩摩藩の罪状を記した「討薩表」を用意したが、慶喜ももはやこの動きを押さえ込むことはできなかった。

 旧幕府軍は京都に向けて進撃を開始。主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、新選組、幕府伝習隊は旧伏見奉行所に本陣を置いた。旧幕府軍に対して、薩摩藩は東寺に本陣を置いて鳥羽街道を守り、長州は東福寺に本陣を置いて、伏見街道を守った。さらに薩摩藩は、城南宮や御香宮にも陣を設けた。
 この時の旧幕府軍の軍勢は約1万5000名だと言われているが、実際は7000名〜8000名であった。それに対して薩長側は、当初、薩摩藩兵1500名、長州藩兵100名ほどで、のちに土佐藩兵300名を加えて、約4500名となった。兵力では旧幕府軍が完全に優っていたが、薩長軍は数では劣るものの、新式の大砲や鉄砲を装備しており、さらに秘策を用意していた。

 
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