耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
平等寺 聖徳太子石像

◆斑鳩は内陸の飛鳥より外交がしやすい場所だった!

 推古9年(601)2月、聖徳太子は斑鳩宮の造営を開始した。4年後には飛鳥からそこに移り住んだとされる。
 聖徳太子の移住の理由は、蘇我馬子との対立にあったといわれる。推古の即位と同時に皇太子として政治に参画するようになった彼が、大臣の蘇我馬子と対立を深め、ついにその闘争に敗れた結果、飛鳥から離れた斑鳩の地に隠遁したのではないかといわれてきたのである。

 しかし、このような見方は疑問である。なぜならば、先にみたように、太子が推古の即位にともなって直ちに皇太子に立てられ、政治の枢要に関与するようになったとは考えがたいからである。当時20歳前後とみられる彼が政治に参画するようになったのはこれ以後のこととみなければならない。
 聖徳太子が政権に加わるようになったのは、むしろ斑鳩宮の造営前後と考えるべきであろう。
 聖徳太子のような有力な皇子は、一定の年齢になると独立した宮殿を営むことがみとめられ、その王宮の経営・維持の費用を供する経済基盤があたえられた。太子が斑鳩宮の造営を始めた時にはすでに30歳近くになっていたから、これ以前に独立した王宮を営んでいたに違いない(所在地は不詳)。