自国のことを非難するだけで他国の動向を見ようとしない偏狭な東京裁判史観がはびこり、終戦が遅れた真の原因がこれまで分析されることはなかった。『日本は誰と戦ったのか』を上梓した、江崎道朗氏が「ソ連の役割」を指摘する。

東京裁判史観の「視野の狭さ」

 日本の敗戦後、アメリカを中心とする連合国は東京裁判を開廷し、「日本は侵略国家だ」という一方的なレッテルを貼りました。

 この東京裁判史観のもとで、わが国の歴史学会もマスコミも、「侵略戦争をしたのは日本陸軍が悪かったからだ」、「いや東條英機首相が悪かった」、「日本海軍にも責任がある」、「昭和天皇にこそ戦争責任がある」といった形で「侵略戦争の責任」を、日本の誰かに追わせようとする議論ばかりをしてきました。

 この東京裁判史観について私はかねてより、自国のことを非難するだけで他国の動向を見ようとしないという意味で「偏狭史観(narrow-minded history)」と呼ぶべきだと思っていました。

 戦争相手であるアメリカやソ連、イギリスなどの動向や内情をまともに分析せずに、ひたすら日本だけを糾弾する東京裁判史観は極めて「視野が狭い」と思ってきたからです。

戦勝国が一方的に敗戦国を裁いた東京裁判。戦後の歴史観に大いに影響を与えている。

 国際政治というのは、複数の国々の思惑で動くものであって、日本だけに「責任」があるかのような議論自体が無意味です。そして「日本が一方的に戦争を引き起こした」とする東京裁判史観を奉じているから、戦後、憲法九条のもとで「不戦の誓い」をしていれば戦争にならないなどという、特異な政治感覚を持ってしまったのではないでしょうか。

 実際に東京裁判史観を奉じる人たちの多くは、北朝鮮が核兵器を開発し、わが国に対してミサイルを撃とうが、中国が尖閣諸島周辺に戦闘機や軍艦を派遣し、わが国の領土・領海を脅おびやかそうが、「憲法九条を守れ」と呪文を唱えるだけです。日本を取り巻く外国の「悪意」を見ようとしない「偏狭さ」には呆れるしかありません。

 こうした国際感覚の欠落への反省からか、「偏狭な」東京裁判史観を見直す動きが起こっています。

 例えば、アメリカのカリフォルニア大学の長谷川毅教授は『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(中央公論新社、2006年)の中で、こう指摘しています。

太平洋戦争末期に日本の為政者が終戦を決定した政治過程は、日本人が大きな関心をもってきた問題である。終戦から現在にいたるまで、おびただしい書物や論文が発表されたにもかかわらず、不思議なことに、日本の終戦にいたる政治過程を国際的な文脈から緻密に分析した学術的な研究は存在しない。(『暗闘』八頁)

 毎年8月になると日本のテレビや新聞では恒例行事のように、終戦過程が話題になってきました。

 その大半が、「国体護持」つまり皇室を守ろうとするあまり日本政府は早期降伏を決断できず、沖縄戦と広島、長崎の原爆投下で多くの人命が犠牲になったとして、日本政府の決断の遅さを糾弾する議論でした。

 日本のテレビ局も歴史学者たちも戦後70年あまり、日本の終戦が遅れたことをもって「当時の日本政府と皇室」をさんざん非難してきましたが、長谷川教授に言わせれば、「なぜ終戦が遅れたのか」について国際的な文脈からの学術的な研究は「存在しない」のです。

 学術的な裏付けがないにもかかわらず、戦前の日本政府と皇室を罵倒してきた彼らが触れようとしてこなかったことの一つが「ソ連の役割」です。長谷川教授はこう続けます。

太平洋戦争終結を論じるときに、ソ連の役割は、アメリカと日本の歴史家によって無視されている。(同、9頁)

 日本政府は昭和20年当時、なんとか早期終戦を実現しようと必死に模索し、日ソ中立条約を締結していたソ連を仲介に和平交渉をしようとしていました。この日ソ交渉を利用して日本の終戦を意図的に遅らせようとしたのが、ソ連の指導者スターリンでした。

『日本は誰と戦ったのか』より構成)