耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載、今回が最終回。
平等寺 聖徳太子石像
 

◆「聖徳太子が憲法十七条を作成した」エピソードは
 聖武天皇教育のための虚像

 聖徳太子の事績として、最後に歴史書の編纂がある。『日本書紀』推古28年(620)条は、太子が大臣蘇我馬子と共同で「天皇記」「国記」を編纂したと伝える。「天皇記」はいわゆる「帝紀」に相当し、天皇の系譜、皇位継承をめぐる物語であり、「国記」とは「旧辞」と同様の書物であり、諸豪族が天皇に奉仕する起源を語る物語や伝承を集めたものとみられる。

 これらを太子と馬子が協力して編纂したというのだが、馬子の後継者、蘇我蝦夷とその子入鹿が滅ぼされた皇極4年(645)6月の段階で蝦夷邸においてその編纂がなお続けられていたようなので、太子と馬子による共同編修というのは事実ではなく、あくまでも彼らの編纂として仮託されたにすぎないのではないかとみられる。蝦夷が天皇に擁立した舒明天皇が、のちに皇統の始祖と仰がれていることからして、舒明の即位を契機に王権の来歴を明らかにするために歴史書の編纂が開始されたことは十分にありえよう。

 
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