先般、拙書『地図から読み解く戦国合戦』(WAC)が発行された。桶狭間合戦、川中島合戦、長篠合戦などなど、各地の勢力変遷マップを読み解きながら、合戦を立体的に俯瞰、分析することに挑戦したのだが、執筆中に「戦国時代の地図の見方」について、あらためて気がついたことがあった。

 まず、旧国境は、基本的には戦国大名の領堺線とイコールになるが、例外も多い。戦国大名の支配の仕組みは、それぞれであり、その優劣を地図として表記することは不可能に等しい。戦国時代には、あまり知られていない弱小戦国大名や、「○○衆」と称される集団が地域に根付いていたが、その大多数は時流に飲み込まれて消滅した。

 以上のような視点に加え、地図作製の過程を通じ、「戦国時代の流れを決定づける最大の要素は、境界争いであり、古代の律令体制が崩壊して以来、延々と繰り返された境界争いに終止符を打ったのが太閤検地である」という一つの歴史的見解を抱くことができた。

 

 江戸時代になっても、農民たちが境界を巡って鍬を片手に争うという事例も根絶されなかったものの、太閤検地では、中央政権が日本全土の農地を強制的に測量し、精度の高い土地台帳を作成することにより、騒動の種となっていた境界争いを抑制することができたのだ。

 このブログらしく、城という見地から、評価すると、まさに城は境界争いを有利にするためのアイテムであり、そのような城は「境目の城」と称された。

「境目の城」で検索したところ、最初に登場したのは鎌刃城(滋賀県米原市)。

鎌刃城虎口石段
本丸

 六角氏に備えて浅井氏が築城した鎌刃城。六角と浅井は、全国地図にすると、「ミリ単位」の版図をめぐって境界争いを演じ続けたのだ。