仏教の受容をめぐる物部氏との宗教対立のほか聖徳太子とも対立したといわれ、王権奪取を目論んだとして滅ぼされるに至る蘇我氏の系譜。悪者として描かれることの多い一族の再評価を試みる。
奈良県明日香村にある石舞台古墳。埋葬者は蘇我馬子といわれている。

姻戚関係が評価されて
「大臣」になり躍進

 蘇我氏の躍進は、6世紀前半、宣化天皇の時代に、稲目が創始されたばかりの「大臣」に任命されたことに始まる。大臣は、天皇のまわりに結集した有力豪族の代表者たちから成る重臣層をたばねる地位であり、彼らと共同して天皇の統治を支えていくのが職務であった。宣化がこの地位を創始したのは、その異母弟、欽明天皇の統治を輔佐させるためであったとみられる。欽明は血統的には申し分がないが、まだ年若く政治的に経験不足で未熟であった。

 稲目がこの大役に抜擢されることになったのは、ひとえに彼の姻戚関係が評価されたためにほかならない。稲目は葛城氏の娘(名前は不詳)と結婚し、これにより葛城氏に縁戚として連なることになったのである。かつて葛城氏は、建内宿禰を祖とする最も有力な豪族連合の筆頭の座を占めていたが、5世紀末葉に天皇家と対立を深め、その本家・本流が没落していた。稲目は葛城氏の入り婿ではあったが、この名家・名門を受け継ぐ立場にあったのである。

 
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